ガングリフォン・ムック(仮)

名作ゲーム、ガングリフォンシリーズについて考察するブログです。他のゲームも時々語ります。更新不定期。

第三次世界大戦戦後史①中印衝突

 ゲームアーツの3Dシューティングゲームガングリフォンを題材とした架空戦記です。時間軸的にはブレイズの直後、第三次世界大戦後の世界を扱っています。筆者の軍事に関する知識は乏しい為、おかしなところが多々あるかも知れませんが、その都度脳内補完してお読み頂けたら幸いです。

 

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 第三次世界大戦後、唯一の勝者となったアメリカは首都ワシントンへの核テロ攻撃によって無政府状態となり、北部、南部、西部の三つに分裂して三つ巴の内戦状態に突入する。この隙にチベットを再併合した中国だったが、その前にアジアの盟主を窺うインドが立ちはだかる。大戦に参加せず国力を温存したインドに対抗する為、中国はAPCを再結成してインド包囲網を形成。深刻な食料不足に喘ぐ日本もこれに参加し、日本外人部隊が再び戦地へと赴く。

 

 

 

序章 アメリカの崩壊

 

アメリカ内戦

 2015年10月12日、ロシア連邦共和国の無条件降伏を以てAPC(アジア太平洋共同体)とPEU(汎ヨーロッパ連合)、AFTA(アメリ自由貿易協定)の三者間で争われた第三次世界大戦*1は幕を閉じた。しかし、それが束の間の平和に過ぎないことは誰の目にも明らかであった。

 

 漁夫の利を得る形で戦勝国となったアメリカは敗戦国に重い戦後賠償を課す一方、国内の食糧事情解決の為、世界各地に占領軍として米軍を駐留させた。同様に食糧問題に悩むAFTA各国もアメリカに倣って大量の兵士をアジアやヨーロッパに駐留させた為、これらの地域では深刻な食料不足が発生し、大量の餓死者が出る事態となった。

 こうしたアメリカの戦後政策が反米感情を生まない筈はなく、世界各地で紛争が頻発。再開された国連PKOの努力も空しく、世界情勢は再び悪化の一途を辿っていった。

 

 そこに追い打ちを掛けたのが自然の猛威であった。前世紀から続く環境破壊による異常気象と天候不順、そして近年になって連続した火山の噴火とそれによる急速な寒冷化は農耕地の減少となって食糧危機をいよいよ深刻なものにしていた。

 当のアメリカでも寒冷化の影響を受けて北部の穀倉地帯が壊滅し、危機的状況が生まれつつあった。寒さを逃れる為、人々は土地を捨てて南部へと殺到したが、南部諸州は治安維持を名目に州境を閉鎖し、州兵との衝突から多数の死者が出る事態となっていた。

 

 こうした状況の中で悲劇は起こった。

 

 2020年1月11日、アメリカの首都ワシントンに対して核テロ攻撃が行われ、大統領を含めた多数の政府要人ごと首都が消失したのである。ほぼ同時刻に副大統領も暗殺された為、アメリカは政府機能を失い、無政府状態に陥ってしまう。

 悪夢はそこで終わらなかった。一週間後にニューヨークで開かれた各州による協議の結果、アメリカは北部連邦と南部盟邦、西部連邦の三者に分裂。北部と南部の対立から瞬く間に内戦へと突入したのである。

 

 既に総人口の三割が餓死していた日本は、表向きは内戦への不介入を表明しつつ、裏でアメリカ西部連邦と軍事協定を締結。食糧援助と引き換えに内戦へ介入することを決意し、西部連邦の要請に応える形で日本外人部隊*2の精鋭、第501機動対戦車中隊(ガングリフォン)を送り込んだ。

 同中隊は開戦から9日後の2月28日にはパールハーバーの太平洋艦隊司令部を、翌3月4日には北部連邦が占領するコロラド州NORAD基地を相次いで急襲し、大きな被害を受けながらもこれを制圧することに成功する。

 彼らの活躍もあり、南部と西部との二面作戦を嫌った北部連邦は西部連邦との間に休戦協定を締結。内戦の舞台は東海岸側へと移り、西部連邦と日本政府は北部連邦との対決にしばしの猶予を得ることとなった。

 しかし、状況は予断を許さなかった。唯一の超大国アメリカの崩壊によって辛うじて保たれていた世界の均衡は脆くも崩れ去り、世界情勢は再び緊張の度合いを高めていく。そしてその最初の火の手はまず、アジアで上がったのである。

 

第一章 中印戦争

 

中印紛争

  2020年3月、カシミール地方ラダック。

 アメリカ内戦の余波は早くもアジアに動乱を起こすこととなった。その中心にいたのが中国とインドである。中国は先の敗戦から国内の混乱が続き、ベトナムとの継続的な紛争やチベット併合の失敗、それによる国連の経済制裁もあって国力を低下させていた。

 一方、大戦に参戦しなかった為に国力を温存したインドは相対的にアジアにおける地位を向上させ、国連においても指導的役割を果たすなど、日増しにその影響力を強めていた。宿敵であるパキスタンとの紛争にも勝利を収め、次第にアジアの盟主の座を狙い始めたインドに対し、中国は強い警戒感を持つようになったが、しばらくの間は両者の対立が表面化することはなかった。互いに巨大な人口を抱える大国同士、直接衝突がもたらすリスクを両者は理解していたからである。

 

 しかし、両者の対立が避けられないものとなる事件が起こる。アメリカの混乱に乗じて中国がチベットに侵攻し、再併合したのである。チベットは前大戦中にPEUの支援を受けて中国からの独立を図るも失敗。戦後になって独立するも再び中国の侵攻を受け、日米主体の国連軍の活躍によって何とか独立を維持した経緯があった。

 

 各国はこぞって中国の行動を非難したが、取り分けて強い非難を表明したのがインドであった。インドは中国軍のチベットからの撤退を要求すると共に、中国国境の部隊を増強して戦争も辞さぬ構えを見せたのである。

 この強硬な態度の背景にはアジアにおける盟主の座を狙うインド政府の思惑と共に、中国と領有権を争うカシミール地方にもほど近いチベット地政学的価値があった。インドはかねてからチベット亡命政府を国内に抱え支援してきたこともあり、チベット独立後も友好国として良好な関係を維持し、チベット国内にインド軍の基地を建設することでカシミール地方における優位を確立しようとしていたのである。それが中国の侵攻で一気に崩されてしまったのである。

 

 中国政府は各国の非難を内政問題であるとして一蹴し、インドに対抗して国境に部隊を集結させた。両者は中印国境で睨み合いとなるが、現地部隊の小競り合いから大規模な軍事衝突に発展、中国軍がインド領に侵攻する事態となったのである。

 現地の中国軍はこの時、北京の中国軍司令部から口実があればいつでもインド領に侵攻するよう命令されており、インドが支配するカシミール地方南部の占領を目指して進撃を開始した。過去の中印紛争の経験と彼我の戦力差から、インド軍の実力を甘く見ていたのである。

 

 しかし、インドは中国が考えるよりもずっと強大な相手であった。インドは前大戦にこそ参戦しなかったものの、悪化する世界情勢への危機感から国を挙げて装備の近代化に取り組んでいたのである。取り分けてインド軍が積極的に導入したのが最新兵器のAWGS(装甲歩行砲システム)*3であった。脚部による高い不整地踏破性を発揮するAWGSは、山岳部の多い北東部国境やカシミール地方での運用に適した理想的な兵器であり、関係の深いロシアや南アフリカから大量のAWGSを購入して装備の拡充に努めていたのである。

 対する中国軍の装備は劣悪だった。主力の13式装甲歩行車にしてからがロシア製BMXのデッドコピー品であり、オリジナルよりも性能が劣っている上、敗戦後の国内の混乱から満足に整備されていない機体も多かった。また、敗戦時の武装解除に伴って装備の多くがAFTA軍に接収されたり、処分されたりしたこともあって弱体化が著しかったのである。

 

 旧式化した13式や14式装甲歩行車、これらに比べると多少高性能なコラート戦闘歩行車で迫り来る中国軍に対し、インド軍は13式のオリジナルであるロシア製BMX歩行戦闘車や南アフリカ製エレファントを前面に押し出してこれを迎え撃った。

 開戦直後はAWGSの運用に一日の長がある中国軍が戦いを有利に進めた。中国軍は14式装甲歩行車の装備する155㎜榴弾砲による準備砲撃を皮切りに、13式やコラートを以て進撃。インド軍の先頭部隊に猛攻を加えた。

 たまらず後退を始めたインド軍を追って中国軍は追撃に出たが、これはインド軍の罠だった。勢いに乗った中国軍の先頭部隊が突出したところでインド軍の戦列後方から現れたエレファント部隊の140㎜滑腔砲が一斉に火を吹き、装甲の薄い13式を次々に撃破していったのである。更にBMX歩行戦闘車やイタリア製リットリオを装備した山岳師団が突出した中国軍の両翼から包囲攻撃を仕掛け、中国軍は甚大な被害を出して潰走状態に追い込まれた。兵器の性能の差もさることながら、敵を過小評価して突出した中国軍と、慎重に罠を張って敵を待ち受けたインド軍の戦術の差が結果を分けたのである。

 

 終わってみれば戦いはインド軍の圧勝であった。インド領に侵攻した中国軍は出鼻を挫かれる格好となって国境まで撤退し、追撃してくるインド軍に対して粘り強い撤退戦を行って損害を与えるも、侵攻は完全な失敗に終わった。中国政府はその日の内に勝利宣言を出し、表向きにはインド懲罰の目的は果たしたとしてインド領内から撤退したが、戦いの結果は誰の目にも明らかであった。

 対するインド軍は中国軍を猛追して中国が実効支配するアクサイチン付近まで迫ったが、中国の要請を受けたパキスタン軍が国境の部隊を増強して不穏な動きを見せたことから進撃を停止し、インド領内に撤退した。

 

 その後も中印国境で散発的な戦闘が続いたが、折からの豪雪もあって戦線は膠着。両国は最終的にロシアと南アフリカ・OAU(アフリカ統一機構)の調停案を受け入れて停戦に合意し、戦いはひとまずの終結を見た。戦略的にはチベット併合を既成事実とした中国の勝利と言えたが、インド軍の戦術的勝利はインド軍の強大化と中国軍の弱体化を強く内外に印象付けることとなった。

 また、両者の対立の火種が完全に消えたわけでもなかった。インドは停戦に合意こそしたものの、中国によるチベット併合は認めず、それどころかチベット亡命政府ダラムサラ)を公式に受け入れ、全面的な支援を表明したのである。面子を潰された格好の中国政府はこの時、インドとの本格的な戦いは避けられないものと認識するようになる。

 

  中国は来るべきインドとの再戦に備えて急ピッチで軍備の回復を図る一方、日本や東南アジア諸国に働きかけてAPCを再創設し、インド包囲網を形成した。多くの国はこれに従い、APCに再加盟した。各国はインドとの紛争を望んでいたわけではなかったが、経済的に結びつきの強い中国との関係悪化を望む国は少なく、軍事的にもアメリカのプレゼンスを期待出来ない現状では従うしかなかったのである。

 それはアメリカ西部連邦と秘密協定を結ぶ日本も例外ではなかった。深刻な食料不足から国内に大量の餓死者が出ていることもあり、周辺国との関係を悪化させるわけにはいかなかったのである。西部連邦も内戦を優位に進める為には日本の協力が不可欠であったことから、協定の維持を条件にこれを認めた。これを境として、日本政府は中国とアメリカ西部連邦に同時に与する二重外交を展開することとなる。

  逆に、食糧生産が比較的順調なオーストラリアとベトナムAPC加盟を見送った。両国は共に過去に中国主導のAPC軍による懲罰的な侵攻を受けており、国民の間に根強い反中・反APC感情が残っていたことも大きな理由だった。中国は中立と加盟国への食糧援助を条件に域外に止まることを認めたが、この判断はやがて将来に禍根を残すこととなる。

 

 中国はAPC再結成と同時に対インド経済制裁を発動し、APC域内からの物資・資源の供給を止めることで揺さぶりを掛けたが、中国との戦いに勝利して自信を深めたインドがこのまま引き下がる筈もなかった。インドは経済的に関係の深い南アフリカを盟主とするOAUと同盟を結ぶことで供給の絶たれた物資・資源を確保し、あくまでも中国・APC陣営に対抗する構えを見せたのである。

 この同盟はOAUにとっても渡りに船であった。インドと同じく先の大戦に巻き込まれずに戦力を温存したOAUは、戦後の国際社会における影響力を強め、アメリカに代わる覇権樹立を目指して中東進出を狙っていた。その実現の為には石油の輸送ルートであるインド洋を抑える必要があり、その観点からもインドとの同盟は戦略上、大きなメリットがあったのである。

 また、伝統的にインドとの関係が強いロシアも秘密裏にインドへの協力を申し出て来ていた。ロシアは表向きには中国との軍事同盟を結んでいたが、中国が前大戦においてシベリア地域の独立を支援したことを忘れてはおらず、その強大化は決して望むところではなかった。中国との直接対決は避けつつも、インドに武器を供給することで間接的に中国の弱体化を図りたいというのがロシア政府の狙いであった。

 こうした各国の思惑が複雑に絡み合い、アジアにおける大規模な動乱が徐々に準備されていったのである。

 

 中国との紛争から間もなく、OAUはアフリカ各国の部隊からなる平和維持軍をインドに派遣し、駐留させた。平和維持軍の名とは裏腹に、その装備は最新式のAWGSや戦車で構成された強力なものであり、それがAPCパキスタン陣営との対決を意識したものであることは誰の目にも明らかであった。それを裏付けるように、時間の経過と共にアフリカ大陸から続々と増援部隊が派遣され、OAUインド派遣軍の戦力は日増しに強化されていったのである。

 中国はこうしたOAU側の行動に対して厳重に抗議する一方、加盟各国に圧力を掛けてAPC軍を再編成し、パキスタン領内に駐留させた。パキスタンにはかねてから中国が建設していた軍事基地があり、これがAPC軍の駐留基地として使用された。

 極秘裏にアメリカ内戦に介入していた日本にも兵力の供出が求められたが、日本政府はこの対応に苦慮した。中国政府の要請が来た6月の時点では西部連邦と北部連邦との間には休戦協定が結ばれていたが、既に北部と南部の戦いは決着が着きつつあり、南部盟邦が敗北寸前に追い込まれていた。この為、西部と北部との間でもいつ情勢が悪化するか予断を許さない状況であり、精鋭の第501機動対戦車中隊を動かせない状況にあったのである。

 この為、北海道の千歳で第503機動対戦車中隊(スレイプニール)が急遽再編され、第502機動対戦車中隊(ワイバーン)と共にパキスタンと中国に派遣されることとなった。急の編成だった為、パイロットには実戦経験の少ない隊員も多かったが、それでも彼らはAPC軍の中で最も強力な部隊の内の一つと考えられた。

 OAU派遣軍の主力である南アフリカ軍は実戦経験豊富な精鋭部隊であった。インド軍と同じ重装型のエレファントを多数装備するだけでなく、ドイツ製のフォルクスパンターを装備した空挺部隊も現地に派遣されていた。再設立されて日も浅く、士気も低いAPC軍の中で彼らに対抗出来るのは、日本のHIGH‐MACS*4部隊だけだったのである。

 

開戦

 2020年8月14日、カシミール地方・アクサイチン。

 チベットの首都ラサで中国からの独立を求める市民のデモ隊と治安当局が衝突し、当局側がこれに発砲して多数の死者が出る事件が起こる。怒った民衆は暴徒化し、事態は自治区全域を巻き込む大暴動へと発展する。

 インド政府の行動は素早かった。インド政府はすぐさま中国政府を非難する声明を出すと共に、チベット亡命政府の要請という形をとって国境に展開させていたインド軍をカシミール地方の中国支配地域に侵攻させる。OAUも中国政府の行動を非難し、平和維持軍として展開していた筈のインド派遣軍をこれに随行させた。

 

 中国はかねてからカシミール地方の戦力を増強してはいたが、装備に勝るインド軍の進撃を止めることが出来ず、中心都市アクサイチンが陥落する事態となる。

 中国政府は増援部隊を国境に送ると共に、パキスタンカシミール地方に進出してインド・OAU軍の背後を突くよう要請する。これに応じて国境に展開していたパキスタン軍が出撃し、インド領カシミールに侵攻した。

 しかし、この攻撃はインド軍の予想の範囲内であった。インド軍は国境に展開していた部隊で防衛戦を展開すると共に、OAU軍に協力を要請。これに応じてニューデリー近郊に駐留していた南アフリカ空軍特殊コマンド空挺連隊(SDAFSCAR)*5の精鋭、第32空中対戦車中隊に出撃命令が下された。

 同隊は日本のHIGH‐MACSと同じ第二世代型AWGSであるフォルクスパンターSAV*6と共に7月にインド入りして以来、臨戦態勢を維持しており、命令が下ると同時にインド軍のIl-76輸送機に搭載されて出撃。進撃中のパキスタン軍の後方30㎞に空挺降下すると、ローラーダッシュパキスタン軍に接近した。

 

 パキスタンは先のインドとの紛争における敗北以来、関係の深い中国から13式を始めとする中国製兵器の供与を受けるなどして戦力の拡充に努めていたが、それらがロシア製や南アフリカ製の兵器で固めたインド軍に敵わなかったことは先の中印紛争の結果を見ても明らかだった。

 挟撃作戦はその初期段階から頓挫していた。国境のインド軍防衛部隊に足止めを受けている間に、突如後方から現れた空挺コマンドによる奇襲を受けてパキスタン軍はパニックに陥った。 

 空挺コマンドの装備するフォルクスパンターSAVは13式を凌駕する圧倒的な三次元機動力を備えていた。第二世代AWGSとの交戦経験のないパキスタン軍は相手の動きに全く対応出来ず、敵を照準に捉えることも出来ずに撃破されていった。敵味方識別装置の性能不足から同士討ちも多発し、それが混乱に拍車を掛けた。

 その間に前方から進撃して来たエレファントとロシア製T10戦車*7からなるインド軍機甲部隊による攻撃が始まり、敵を挟撃するどころか、自身が逆に挟撃される形となってパキスタン軍の戦列は崩壊。残存した部隊も国境へ敗走を始め、これを猛追するインド・OAU軍がパキスタンカシミールに逆侵攻し、一帯を制圧してしまう事態となる。

 こうして開戦から数日の間にカシミール地方の大半がインドの制圧下に置かれることとなった。アクサイチンのインド・OAU軍は依然として進撃速度を落とさずにチベットを目指して進撃しており、インドと同盟を組むブータン・ドグラム平原方面からも駐留していたインド軍部隊が進出して二方向からチベットを窺う構えを見せていた。隣国のネパールは非同盟中立という従来の政策を貫いてインド軍の通過を許可しなかったものの、情勢次第ではいつインド側につくか予断が出来ない状況であった。危機感を覚えた中国政府はAPC軍の投入を決定する。この判断の裏には戦争に及び腰のAPC各国に踏ん切りをつかせる意図も含まれていた。

 

 この攻撃の先鋒を担ったのが日本外人部隊の第503機動対戦車中隊であった。同中隊はこの時、パキスタン軍の士官学校があるペシャワール近郊のアボッターバードに駐留していた。部隊には完全定数の16機の16式装甲歩行戦闘車と6機の予備機が配備されており、13日の開戦以来、臨戦態勢を維持していた。

 8月14日の未明、同中隊は北京に置かれたAPC軍総司令部からの命令を受け取ると、直ちに4機のC‐17グローブマスターⅢに搭載されて出撃。電子戦機とパキスタン空軍機の支援を受けつつ、進撃するインド・OAU軍の直上で降下した。16式は12式を遥かに超える高高度からの降下能力とステルス性能を持っており、地上を行くインド軍はその接近に全く気付いていなかった。

 突如としてインド軍の直上に表れた16機の16式による奇襲は巧妙を極めた。まず先行して降下した4機がインド軍の車列上空に四発のクラスター爆弾を空中発射。空中で拡散した誘導型の対戦車子弾数百発による攻撃は凄まじく、この時点でインド軍の先頭部隊の半分ほどが行動不能となった。

 そこに更に降下して来た残りの12機が追い打ちを掛け、空中からの105㎜低反動滑腔砲による狙撃でエレファント2機とT10戦車5両の上面装甲を撃ち抜いて直ちに地上に降下。瞬く間に生き残った2機のエレファントの背後に回り込むと、至近距離から車体後部のエンジンブロックを撃ち抜いた。

 インド軍は突如の奇襲にパニックに陥り、後退する車両と前進する車両が衝突して身動き取れない状況になった。そこに16式の放ったクラスター爆弾が再び炸裂し、混乱に拍車を掛けた。FCSの強化で多彩な武装を扱える16式の強みが存分に出た格好となったのである。

 16式は本来の持ち味である機動性も12式のそれを遥かに上回り、多彩な兵装と圧倒的な三次元機動力を駆使した第503機動対戦車中隊の猛攻の前に、攻撃開始から僅か十数分でインド軍の先頭部隊はたちまち壊滅状態に陥った。

 一方、HIGH‐MACS部隊の奇襲をある程度予想していた南アフリカ軍は冷静に対処した。過去にスエズ運河で第501機動対戦車中隊と渡り合った経験を持つ南アフリカ軍は、対空型のバリアント支援戦闘車両や2S6Mツングースカで強固な防空体制を敷いており、16式に付け入る隙を与えなかった。しかし、インド軍の戦列が乱れたことでOAU軍も進撃を停止せざるを得なくなる。

 

 新生・第503機動対戦車中隊の初陣となったこの作戦は大成功を収めた。当初こそ経験不足を危ぶまれていたものの、終わってみれば南アフリカ軍のAWGS3機と戦車5両を含む50両以上の戦闘車両(大半がインド軍の車両だった)を撃破し、機体の損失も僅か3機に止まるという、大戦果であった。

 この間にも態勢を立て直した中国・APC軍の増援が到着し、チベット平原西部に防衛線が敷かれた。この増援部隊には今まで消耗を恐れて投入されてこなかったドイツ製ティーガー先の大戦で鹵獲した機体が多かった)も多数投入されており、兵器の性能だけで言えばインド・OAU軍のAWGSにも十分対抗することが出来た。ティーガーはその高い不整地踏破性でヒマラヤの険しい地形でも自由に登坂出来る上、装甲と武装も13式や14式とは比べ物にならなかったのである。

 

ラサ奇襲

  2020年8月22日、チベット・ラサ。

 ヒマラヤ戦線で一進一退の攻防が続いている頃、ニューデリーのOAU派遣軍司令部ではヒマラヤ戦線の主力部隊を支援する為、チベットのラサに空挺コマンドを送り込む奇襲作戦が立案されていた。前大戦で旧PEU・ドイツ軍が降下猟兵旅団をラサに送り込み、チベット独立を支援することでAPC陣営に揺さぶりを掛けた作戦を模倣したのである。

 南アフリカ空軍特殊コマンド空挺連隊は近年になって新設された部隊であり、隊員にはヨーロッパ出身者が多かった。彼らの大半は戦後、ヨーロッパに吹き荒れた戦力縮小の嵐に伴い除隊を余儀なくされた元PEU軍兵士で構成されており、偶然にもかつてラサに降下した降下猟兵旅団のパイロット達も多数在籍していたのである。彼らの手によって直ちに詳細な作戦計画が立てられ、実行に移された。

 8月22日の深夜、空挺コマンドのフォルクスパンターを積み込んだIl-76輸送機の編隊はインド北東部のインパールから飛び立ち、インド空軍の護衛を受けながらブータン経由で中国国境を越え、ラサの上空で積み荷を降ろした。空挺コマンドの降下前には電子戦機によるジャミングが行われ、敵守備隊のレーダーを攪乱した*8

 完璧な奇襲であった。超低空で市内の大通りに空挺降下したフォルクスパンターは直ちにラサ市内に散らばり、未だ状況が掴めていない中国軍防衛部隊を急襲した。防衛部隊も奮戦するが、ジャミングと闇夜を利用した敵の巧妙な作戦の前に苦戦を強いられ、敵の姿を捉えることもなく一方的に撃破されていった。

 更に、これに呼応するかのようにラサの民衆も武装蜂起し、攻撃に加わった。市内各所で戦闘が起こり、ラサは紅蓮の炎に包まれた。こうして僅かな時間の内に中国軍の防衛部隊は壊滅し、ラサが制圧される事態となってしまう。

 

 一方、対する中国軍も手をこまねいているわけではなかった。ブータン国境の部隊から兵力を抽出して増援を送ると共に、成都に駐留していた日本外人部隊の第502機動対戦車中隊をラサに向かわせた。

 日本の精鋭・機動対戦車中隊と、ドイツ軍降下猟兵の衣鉢を受け継ぐ南アフリカ空挺コマンド。図らずも、チベットを舞台に第三次世界大戦の因縁の対決が繰り広げられることとなったのである。

 いつ果てるともない激戦はしかし、地の利を有するAPC軍の勝利に終わった。機動対戦車中隊の活躍もあって空挺コマンドは撃退され、ブータン方面へと離脱した。ラサの蜂起も制圧され、治安当局による苛烈な取り締まりが行われた。中国はラサにおける勝利を大々的に喧伝して防衛の意義を強調したが、それは戦術レベルの話であり、戦略的に見れば勝利したのはOAU軍であった。

 

 第502機動対戦車中隊がラサで激戦を繰り広げている頃、チベット平原西部とブータン・ドグラム峠の両面でインド・OAU軍がラサの混乱の隙を突いて攻勢を開始し、前線を大きく押し上げていたのである。

 また、ラサ攻撃のもたらした心理的ショックも大きかった。一時的にでもラサがインド・OAU軍の手に落ちたことは中国の弱体化を強く印象付け、中国国内の少数民族の独立の動きを刺激せずにはおかなかったのである。

 この動きは中国の西端、新疆ウイグル自治区の独立となってまず現れた。新疆ウイグル自治区チベット同様、中国からの独立を志向して来たが、中央政府によって抑圧されてきた歴史があった。しかし、ラサ陥落の報を受けて自治区内の独立運動が一気に爆発し、中国からの独立を宣言したのである。

 

 中国政府にとってこれは絶対に認められないことであった。ここで独立を認めれば、他の少数民族が治める自治区でも連鎖的に独立の機運が高まり、中国そのものが崩壊しかねない危険を孕んでいたからである。

 また、問題は別の観点からも深刻であった。中国にとってチベット・新疆ウイグル自治区は鉱物資源と天然ガスの重要な供給地であると同時に、やはり資源の供給国である中央アジア諸国と中国を結ぶ交通の要衝でもあったのである。莫大な資源を埋蔵するアフリカ・OAUとの関係が悪化した今、中国にとってこの地域は絶対に手放すことの出来ない戦略的要地になっていたのである。

 それはAPC各国からの経済制裁により資源供給を絶たれたインドにとっても同じだった。チベットウイグル自治区を抑えることで中央アジアからの資源ルートを分断し、中国の戦争遂行能力に打撃を与えつつ資源の供給地を確保する。これがインド政府の描いた戦略であった。

 しかし、それにも増して重要だったのがヒマラヤの水資源であった。大規模な経済開発とそれに伴う環境破壊によってもたらされた砂漠化は、今世紀に入ってから都市部への急激な人口流入とその結果としての水不足を誘発し、世界各地で紛争の火種になっていたのである。

 アジアの水脈であるヒマラヤ周辺の国々では特に対立が激しく、上流の中国やネパールによるダム建設や灌漑などで下流のインドやバングラデシュでは慢性的な水不足が発生していた。インドとしては何としてもヒマラヤの水利権を確保し、国内の巨大な人口を支える必要があったのである。

 つまるところ、中国とインドの対立の根本にあるのはチベット問題でもなければアジアの覇権を巡る戦いでもなく、互いに巨大な人口を抱える大国同士の生き残りを掛けた熾烈な生存競争だったのである。

 

 中国政府は直ちに新疆ウイグル自治区内の中国軍に首府ウルムチの制圧を命じると共に、日本外人部隊にも支援を要請。ラサの第502機動対戦車中隊が再度ウルムチに派遣され、新疆ウイグル自治区独立を支援する為に急派されたインド軍空挺部隊と激しい戦闘を繰り広げることとなった。

 同中隊の活躍によって新疆ウイグル自治区の独立は阻止されたが、二度の連戦で同中隊も少なからぬ被害を受け、後方の成都に後退することを余儀なくされる。この間にも主戦線のインド・OAU軍は更に前線を押し上げてチベット自治区に指呼の距離まで迫ったが、進撃はそこでストップした。
 ここまで優勢に戦いを進めて来たインド・OAU軍にも問題がないわけではなかった。ヒマラヤの厳しい気候は寒さに不慣れなアフリカ出身の兵士達を苦しめ、酸素不足による高山病から体調不良を訴える者が続出。険しい地形を急進撃したせいでAWGSの機構にも大きな負担が掛かっており、機械的トラブルから脱落する機体も少なくなかった。

 しかし、何よりも峻険なヒマラヤ越えでの補給が滞り始めたことが決定打となり、インド・OAU軍はその進撃を停止せざるを得なくなる。インド・OAU軍を最も苦しめたのは中国・APC軍ではなく、ヒマラヤという世界最大の天然の要害であったのだ。

 こうして両軍は互いに手詰まりの状態となり、ヒマラヤ戦線は膠着状態に陥ったのである。

 

APCインパール

 2020年9月26日、インド東部・インパール

 ヒマラヤ戦線の膠着を打開する為、インド・OAU軍はその矛先を東に向け、東南アジアに第二戦線を開くことを決定する。即ち、インド東部と同盟を組むバングラデシュの二方向からのミャンマー侵攻である。

 東南アジア諸国は元々インドとの戦争には消極的であり、APC加盟も中国の外交圧力によって仕方なくしたものに過ぎない。戦火が自国に及べば遠からずAPCからも離脱する国も出てくるであろうことは先の大戦を見ても明らかだった。東南アジアを戦場とすることでAPC加盟国間の分離を促し、その解体を図る。それがインド政府とOAU首脳陣の描いた戦略であった。

 この決定に基づき、インド軍と南アフリカエチオピア軍等を主力とするOAU派遣軍がインド東部とバングラデシュ東部に集結を開始し、10月の乾季を待ってミャンマーに侵攻する構えを見せた。

 

 ミャンマー国境には既にインド側の動きに備えて十分な防衛体制が敷かれていたが、ミャンマー国内が戦場となれば東南アジア諸国に動揺が広がることは中国政府も十二分に理解していた。これを避けるには集結中のインド・OAU軍に先制攻撃を仕掛け、戦場をインド・バングラデシュ国内に移すことが必要だった。

 また、戦争の主導権を握るという観点からもこの決定が後押しされた。中国政府は開戦以来の連敗は敵の攻撃に対して受け身になって来たことが要因だと考えており、攻勢を仕掛けることで戦いの主導権を取り戻したいと考えていた。

 中国政府の決断は素早かった。9月20日の夜半、インド・OAU軍の攻勢を待たずしてミャンマー国境に展開する中国・APC軍にインド及びバングラデシュ領内への侵攻命令が下された。それに先駆けて主要都市チッタゴン近郊に集結中のインド・バングラデシュ軍への奇襲攻撃が立案され、第503機動対戦車中隊に出撃命令が下された。

 ペシャワールから中国を経由してミャンマーマンダレーに移動していた第503機動対戦車中隊は、北京のAPC軍総司令部からの命令を受け取ると直ちに出撃し、中国軍機の支援の下、バングラデシュ国境を越えた。 

 同中隊は先の戦いで奇襲を警戒したインド軍が対空防衛網を強めていることを考慮し、防衛の手薄なチッタゴン沿岸域の「船の墓場」に空挺降下。廃棄された多数のコンテナ船を遮蔽物として利用しながら殺到したバングラデシュ軍の13式を次々に狙撃していった。慌てて駆け付けたインド軍の増援も16式の三次元機動力に対応出来ず、敵の姿を捉える前に撃破されてしまう。

 これと同時に国境で待機していた中国・ミャンマーなどを主体とするAPC軍がバングラデシュ領内に侵攻し、貧弱な国境防衛部隊を破って急進撃でチッタゴンに迫った。

 

 バングラデシュ方面での攻勢が順調に展開している頃、インド東部国境でも中国・APC軍による侵攻が開始されていた。国境を流れるチンドウィン川を渡河してパドカイ・アラカン山脈に前線を移動させ、バングラデシュ方面の進撃を支援することを目的とした攻勢作戦であった。

 この攻撃には新たに増派された日本外人部隊の第102機甲師団(地勢を考慮して機甲偵察中隊斥候小隊を始めとするAWGS部隊を中心に派兵され、戦車部隊は少なかった)も参加したが、日本政府は太平洋戦争時のインパール作戦の経験からこの作戦に反対していた。チンドウィン川の流域西部は2000メートル級の山々が連なる山岳地であり、守るに易く攻めるに難い天然の要害だったのである。日本政府はチンドウィン川を自然の防壁として敵を待ち受け、侵攻してくる敵戦力の消耗を図る方が得策であると進言したが、最終的には国内を戦場にしたくないミャンマー政府と中国政府の意向に押され、攻勢が開始されることとなったのである。

 

 もっとも、中国政府もインパール作戦の教訓は学んでおり、何の目算もなく侵攻を命じたわけではなかった。中国政府が攻勢を決意した理由は大きく分けて三つあった。

 一つはチンドウィン川に対する認識である。日本政府の言う通り、チンドウィン川は雨期こそ水量が増して天然の防壁となり得たが、目前に控えた乾季には水量も減って川幅も大きく縮小し、インド・OAU軍の攻勢を防ぐ役目を果たすには不十分であると考えられた。この為、逆に前進してパドカイ・アラカン山脈の高所を占めて敵を迎撃する方が得策だと判断されたのである。

 二つ目は中国と国境を接するミャンマー北部にインド・OAU軍が進出することは自国の安全保障上もさることながら、戦争の趨勢そのものを左右しかねない危険性があったことが挙げられる。万一敵の攻勢が中国に対して敵対的なベトナムと呼応したものになれば、中国南部一帯が危険に晒されるだけでなく、インド・ベトナムラインの形成により東南アジア諸国との連携が絶たれてしまう可能性があり、戦争遂行上、大きな支障を来す可能性があったのである。

 そして三つ目は自軍の置かれた状況が太平洋戦争時の日本軍とは決定的に違うということであった。物資が欠乏し、空軍による支援も不十分なまま敵地での強行軍を求められた日本軍に比べ、中国とミャンマーからの補給ルートは確保されている上、空軍力を含む後方支援も万全だった。軽装備の歩兵が中心だった日本軍と違い、多くの部隊が機械化されている上、通行が困難な山岳地帯も不整地踏破性に優れるAWGSがあれば十分突破していけることは先のヒマラヤ戦線で証明されていた。つまるところ、全ての面で当時の日本軍よりも良い条件が揃っていると考えられたのである。

 

 また、この時点ではAPC軍総司令部も把握していなかったが、開戦から常に自軍を苦しめ続けて来た南アフリカ空軍特殊空挺コマンドがラサの戦いで疲弊した戦力補充の為、ニューデリーに後退していたことも僥倖であった。敵空挺部隊が不在であれば後方を脅かされることもなくなり、戦力を集中しての突破が可能になる。逆に言えば、敵の精鋭が不在の今こそ攻勢作戦を発動する絶好の好機でもあったのである。

 

 こうして中国・APC軍の大部隊がチンドウィン川を渡り、ミャンマー国境から三隊に分かれてインド領内に侵攻した。侵攻直前にはインド・OAU軍の集結地に対して中国・APC連合空軍による奇襲攻撃が実施され、地上部隊の進撃を空から支援した。

 機先を制せられた格好となった現地のインド・OAU軍は慌てた。前線の部隊は奇襲によりパニック状態に陥り、情報が錯綜して指揮系統に乱れが生じていた。また、インド空軍も敵の進撃が予想以上に早かった為に敵の位置を掴めず、有効な反撃を行えずにいたのである。

 この間にも中国・APC軍は急進撃で山岳地帯を駆け上り、インド領内深く攻め入った。その先頭を行くのは中国軍のティーガーと日本外人部隊第102機甲師団機甲偵察中隊斥候小隊に配備された9式改*9で、APC軍総司令部も驚くほどの速さで山岳地を踏破していった。

 中国・APC軍の作戦はまずは成功を収めたと言って良かったが、中国・APC軍の狙いがインド東部の要衝インパールの占領にあると喝破したインド・OAU軍は緊急にインパール周辺に部隊を展開し、防衛体制を整えつつあった。

 

 インド領の奥深くに進むにつれてインド・OAU軍の抵抗も激しいものとなった。特にAPC軍が苦しめられたのは敵が各所に設けていた対空陣地で、木々で巧妙に偽装されたロシア製BMX-30高射機関砲と2S6Mツングースカの攻撃により地上部隊だけでなく、支援の空軍機にも被害が出始めていた。

 また、南アフリカ軍の装備するイギリス製バリアントも威力を発揮した。バリアントは元々対空戦闘をメインに開発された機体だったが、62口径76㎜ライフル砲が装甲目標に対しても効果的であることから簡易の移動砲台として運用され、押し寄せてくるAPC軍を相手に奮闘を見せた。更に、これまで何度となくAPC軍を苦しめて来たエレファントが対空陣地の中央に配置され、山の上からAPC軍に砲撃を浴びせてきたのである。

 この鉄壁の守りを崩すのは容易ではなく、インド侵攻から数日でAPC軍の進撃は全線で食い止められることとなった。コヒマ目指して進撃していた第102機甲師団も敵の強力な反撃に遭い、コヒマ前方で足止めを食らってしまう。

 これを受けて北京のAPC軍総司令部はミャンマーマンダレーに待機させていた蘭州軍管区の第15空挺軍の2個空挺師団と日本外人部隊の第502機動対戦車中隊の投入を決定。それぞれインパールとコヒマに降下し、敵軍の背後を突くよう命じる。

 

 しかし、作戦は開始当初からトラブル続きだった。降下前には中国軍機による対空陣地への準備爆撃が行われたが、木々で巧妙に偽装した敵対空陣地には期待されたほど効果はなく、逆に敵の反撃で撃墜される機体が続出した。

 それでも9月26日の夜半、中国軍空挺師団は降下を決行し、13式装甲歩行車を含む多数の装甲車両が輸送機から続々と降下していった。空挺作戦の基本に則った闇夜に紛れての降下であったが、折からの強風が雲を押し流してしまい、月明かりが降下する中国軍の姿を露わにしてしまった。また、強風に煽られて降下中に接触する機体も続出し、作戦の見通しには早くも暗雲が垂れ込めていた。

 インド・OAU軍は当初こそ突如の奇襲に混乱したものの、すぐに態勢を立て直して降下する中国軍に攻撃を開始した。AWGSを始めとしてほとんどの戦闘車両が夜間暗視装置を装備していたこともあり、射撃は正確を極めた。無防備な降下中を狙われた中国軍は破壊される機体が続出し、何とか降下を終えた部隊も味方と散り散りになって連携が取れなくなってしまう。

 

 一方、コヒマに降下した第502機動対戦車中隊も苦しい戦いを続けていた。同中隊の装備する16式は中国軍の13式と違って輸送機からの自由落下が可能であり、降下時の隙を狙われることもなく無事に降下を終えることが出来たものの、月明かりのせいで奇襲効果は半減しており、数に勝る敵の猛攻を受けることとなった。

 それでもこの奇襲で敵が混乱した隙を突いてコヒマ前方の第102機甲師団が敵陣地を突破することに成功し、コヒマに進撃。第502機動対戦車中隊と連携して苦闘の末にコヒマを占領することに成功する。

 APC軍総司令部はこの報告に色めき立ち、両隊にコヒマの保持を厳命すると共に、全線の部隊に対し更なる進撃を命令する。コヒマを保持すればインパールとディマプルの制圧にも道が開け、インド東部全体に睨みを利かせて今後の戦いの主導権を握ることも可能になってくるからである。

 しかし、現地の第502機動対戦車中隊と第102機甲師団は共に激闘で戦力を消耗しており、これ以上の戦闘は継続出来ない状態まで追い込まれていた。また、この時点でインパール方面に降下していた中国軍空挺師団は撃退されていた上に、ディマプルでも敵の強力な反撃に遭って進撃がストップしていた為、味方の支援も期待出来なかった。

 

 現状ではコヒマの保持は不可能と判断した両隊は、インド空軍による反撃が始まったこともあり、独断でコヒマからの撤退を開始。逆襲に燃えるインド軍の執拗な追撃を受けながらも、両部隊は無事味方の前線まで撤退することに成功する。同時に降下した中国軍に比べて被害が少なかったのは、その装備の差もさることながら、両隊の連携が上手く取れていた為であった。

 両隊の独断撤退を知った中国政府は激怒し、インパール攻略失敗の責任は日本外人部隊にあると激しく非難するも、現状ではこれ以上の進撃は不可能と判断して全軍に作戦中止を命じた。同じ頃、バングラデシュ領内では中国・APC軍の別動隊が電撃的侵攻を続けてチッタゴンを制圧することに成功していたが、インド方面での攻勢頓挫によりそれ以上の進撃は不可能だった。

 こうしてAPC軍の攻勢作戦は開始から数日で早くも頓挫することとなった。インド・バングラデシュ方面に戦線を押し上げるという初期の目標は達成したものの、勢いに勝る敵軍の反攻を食い止めることが出来ず、ミャンマー国内への撤退を余儀なくされた。

 

ダッカ市街戦

  2020年10月20日バングラデシュダッカ

 インパール正面での戦闘に勝利したインド・OAU軍はチンドウィン川を渡河し、ミャンマー領内に逆侵攻した。遂に中国軍が恐れていた東南アジアでの戦いが始まったのである。インド・OAU軍はミャンマーの主要都市マンダレー目指して進撃を続けていた。

 しかし、大方の予想に反してAPCを離脱する国は出なかった。東南アジア諸国は中国の戦いに巻き込まれることこそ望まなかったものの、同じ東南アジアの一国であるミャンマーの救援にためらいはなく、タイやマレーシア、インドネシアにフィリピン、果てはシンガポールなどの小国からもミャンマー国境に続々と各国の部隊が送り込まれたのである。これらの部隊は士気も高く、戦意も旺盛だった。

 ミャンマー国内に広がる広大なジャングルもAPC軍にとって有利に働いた。インド軍のBMXやバリアントは鬱蒼とした木々に阻まれて自由に行動することが出来ないのに比べ、東南アジア各国が標準装備するタイ製コラート戦闘歩行車はパワーのある大型の腕部で木々をなぎ倒しながら自由に行動することが出来た。

 また、この戦いから実戦投入された新型のハヌマン偵察歩行車*10も威力を発揮し、小振りな車体を活かした神出鬼没のゲリラ戦法で敵の進撃をストップさせるのに一役買った。この間にインパールから撤退して来た中国軍と日本外人部隊も態勢を立て直し、インド・OAU軍の進撃を食い止めることに成功したのである。

 こうしてインド・OAU軍側の目論見は外れることとなった。ミャンマー侵攻はAPC加盟国間の分断を誘うどころか、逆にその結束を強めさせるという皮肉な結果に終わったのである。インパールにおける勝利にも関わらず、インド・OAU 側は戦略に見直しを迫られることとなった。

 

 しかし、一方の中国政府も安穏としてはいられなかった。反撃の成功で今は加盟各国の士気も上がっているが、インドとの戦争が長期化すれば各国の不満は高まり、結束にも亀裂が入ることは必定だった。

 また、東南アジア諸国でありながらAPCに未加盟を貫くベトナムの存在も中国にとって不安材料の一つだった。中国とベトナムはこれまで何度となく紛争を繰り返しており、先の大戦でもベトナムが中国領に侵攻して阻止された経緯があった為、今尚国境に防衛用の兵力を張り付かせておく必要があった。雪辱の機会を窺うベトナムがインドと手を組む可能性は大いにあり、実戦経験豊富なベトナム軍が敵側に着けばインドシナ戦線そのものが崩壊する恐れすらあったのである。

 事実、この時既にインド・OAU政府はベトナム政府と非公式に接触しており、巨額の援助と引き換えに自陣営への協力を呼び掛けていた。長年にわたる中国からの経済制裁で逼迫していたベトナムにとって、これは願ってもない好機であった。

 この動きを察知した中国政府はベトナムに特使を送って関係改善とAPC陣営のへの協力を要請したが、要請とは名ばかりの恫喝的な態度にベトナム政府は態度を硬化させ、返答を拒否した。

 ベトナム政府が不気味な沈黙を続ける中、各国を驚かせる予想外の事件が起こった。

 

 バングラデシュで軍の右派勢力がクーデターを起こし、首都ダッカを制圧したのである。クーデター部隊は臨時政府を樹立してAPCへの加盟を宣言すると共に、インド・OAUとの同盟破棄と国内に展開する両軍の即時退去を要求。事件の背後に中国政府がいることは誰の目にも明らかだった。

 バングラデシュは伝統的に隣国インドの強い影響下にあったが、近年は中国の援助で開発が進められてきた経緯もあり、政府内部も親印派と親中派の勢力に二分されていた。特に、政治に強い発言権を持つバングラデシュ軍は中国から装備を供与されていたこともあり、中国との関係が深かったのである。バングラデシュ国内の切り崩しを図った中国お得意の政治工作が功を奏した形であった。

 インド・OAU軍はクーデター軍を非難すると共に、直ちに空挺コマンドをダッカに派遣。同時にインド国境から大部隊を侵攻させてダッカの占領を目指す。対する中国・APC軍も第503機動対戦車中隊をクーデター軍の支援に送り込むと同時に、チッタゴン近郊で待機していた別動隊をダッカに進撃させる。ダッカを巡ってクーデター軍と中国・APC軍、そしてインド・OAU軍が入り乱れての激戦が繰り広げられた。

 

 この戦いは限定戦争の形を取っていた。開戦直後からスイスのジュネーブで続けられてきた両者の外交交渉により、前大戦におけるジュネーブ協定を踏襲する形で協定が定められていたのである。そこには「非軍事目標(都市部)への攻撃禁止」という項目も含まれていたが、それが守られることはなかった。前大戦におけるカイロ市街戦の悲劇が、ダッカを舞台に再び繰り広げられたのである。

 特に大きな被害を受けたのはスラムに住む貧しい人々であった。自国軍である筈のバングラデシュ軍も含めて彼らを守る者は誰もおらず、多くの人々が戦闘の犠牲となり、路上に焼け出された。ダッカの大半を焦土と化した激戦の末に、戦いはインド・OAU軍の勝利に終わり、クーデター部隊は鎮圧された。中国・APC軍もまた、東へと撤退していった。

 

包囲網突破戦

 2020年10月22日、バングラデシュチッタゴン

 ダッカの戦いは中国・APC軍の敗北に終わった。インド軍は撤退する中国・APC軍の主力を撃滅するべく、追撃を開始。同時にインド東部からもバングラデシュ領内に部隊を送り込み、中国・APC軍主力の退路を断ってその包囲殲滅を図った。追撃部隊の中には南アフリカ空挺コマンドの姿もあり、猛スピードでAPC軍に迫っていた。中国・APC軍の運命は風前の灯だった。
 ここでも血路を開いたのは日本外人部隊の第503機動対戦車中隊であった。同中隊は味方の撤退路を開くべく奮戦。チッタゴン丘陵に展開したインド軍と激戦を繰り広げる一方、追撃して来た空挺コマンドを苦闘の末に撃退し、味方を撤退させることに成功したのである。

 しかし、その代償は余りに大きかった。空挺コマンドの猛攻で第503機動対戦車中隊はその戦力の大半を喪失し、開戦から70日余りにして壊滅したのである。

 

 この報を受けてミャンマーAPC軍部隊には動揺が広がった。これまで幾度となくAPC軍の危機を救って来た機動対戦車中隊の存在は大きいものだっただけに、その壊滅は各国部隊の士気を下げるだけの十分なインパクトを持っていた。その影響は苦闘が続くヒマラヤ戦線にも波及した。

 勢いに乗るインド・OAU軍が更なる攻勢に出てくることが予想され、沈黙を続けるベトナムがこのタイミングで参戦すればインドシナ戦線全体が崩壊の危機に瀕するのは火を見るより明らかであった。
 特に、今回の戦争で国土が戦場となったミャンマーや人的被害の多かったタイなどの東南アジア諸国からは中国政府に対する不満の声が出始め、その結束に亀裂が出始めていた。インド・OAU側の打った楔がようやく効果を表し始めたのである。

 

 しかし、これまで歩調を合わせて来た当のインド・OAU側にも足並みの乱れが出つつあった。

 まず協力を求め続けていたベトナム政府がインド・OAU側への協力拒否を通告して来たのである。ベトナム政府としては中国の弱体化には喜んで手を貸したいところであったが、東南アジア諸国との関係悪化は必ずしも望むところではなく、各国の人的被害が広がっている今、インド・OAU側に立って参戦して周辺国に遺恨を残すのは得策ではないとの現実的判断があった。

 また、ベトナム政府はOAU、特に南アフリカ政府の一連の行動に対して懐疑的な見方を持っていた。まるで中国とインドの戦いを煽るようにして兵力を送り込み、アジア地域に戦火を巻き起こすそのやり方には、インドを自陣営に取り込もうという以上の意図があるように思われたのである。

 

 これを裏付けるように、ベトナムの協力拒否を受けて南アフリカ政府はインド政府に対して早期の停戦を求めたのである。

 元々南アフリカがインドに肩入れした理由は、巨大な人口を有する市場を獲得すると共に、中東進出の為のパートナーとすることにあったとされる。しかし、それは表向きの理由であり、実際には将来の中東進出を見越して敵性勢力となりそうな中国・APCへの防波堤としてインドを利用し、両者の対立を煽ってあわよくば共倒れを狙おうというのが南アフリカ政府の真の狙いであった。

 南アフリカ・OAUにとって主戦線はあくまでも中東であり、アジア太平洋地域は第二戦線に過ぎない。南アフリカ政府にしてみれば、中国・APCの弱体化には半ば成功していた為、早期の内に停戦して中東進出を図りたいというのが本音であった。

 一方、アジアの盟主の座を狙うインド政府にとっては中国が弱体化している今こそが絶好の好機だった。チベットウイグルミャンマーバングラデシュと、一連の戦いで中国は疲弊しており、これ以上の戦闘拡大は難しい。この機を逃さず敵に決定的打撃を与えれば、戦後のアジアにおけるパワーバランスを一挙に変更することが出来る。それがインド政府の思惑であった。

 この両者の温度差はすぐに現地部隊の行動にも表れ始めた。急進撃で進むインド軍に対し、OAUインド派遣軍は補給の遅れを理由に進撃を渋るようになったのである。この時、ニューデリーのOAU派遣軍司令部は本国から極力戦闘を避け、これ以上の損耗は抑えるように通達が来ていたのである。敵の追撃を焦るインド軍はOAU軍の支援に見切りをつけ、単独で中国・APC軍の追撃に移った。中国軍主力の撃滅は戦争終結に道筋を着けるこれ以上ないほどの打撃となる筈であった。

 

 インド軍が中国・APC軍の主力を猛追していたその時、バングラデシュを超大型のサイクロンが襲った。各地で川が氾濫して洪水が発生し、道路網が寸断された。国土の大半が湿地であることもあって増水した水は一向に引く気配を見せず、インド軍の戦列は各地で分断され、補給どころか連携もままならない状態となってしまった。

 ミャンマーに向って撤退していた中国・APC軍は即座に反転し、混乱するインド軍の先頭部隊に猛烈な反撃を浴びせる。ここに至って攻守逆転し、追撃していた筈のインド軍は一転、 本国への撤退を開始する。

 同じ頃、ミャンマーに侵攻していたインド・OAU軍部隊も撤退を開始していたが、異常気象による長雨によって増水したチンドウィン川で足止めを食らっていた。中国・APC軍はここでも全戦力を以て反撃に出て、撤退中のインド軍を増水したチンドウィン川に追い落とした。インド軍は各所で甚大な被害を出してインド領内に撤退。敵残存部隊を追ってバングラデシュを西進していた中国・APC軍の別動隊も洪水により追撃が難しくなり、同日中に進撃をストップした。

 

 この時点で両者は戦争継続が難しい状態に追い込まれていた。インド側はOAUとベトナムの協力拒否とミャンマー侵攻の失敗で計画を根本から立て直す必要に迫られており、国内では早期の紛争終結に向けた動きが加速していた。インド政府としては中国に対する決定的打撃を与えることこそ叶わなかったものの、カシミール地方の大半を確保した状態で停戦に合意出来れば戦後の優位を確立出来るという計算もあった。

 一方、中国側も国内の混乱によりインド以上に疲弊していた上、APC加盟国内に厭戦機運が広がっていることもあり、これ以上の戦闘継続は困難だった。国境での勝利を成果として幕引きを図るには絶好のタイミングであった。

 

 両者の間で戦争終結に向けた機運が急速に高まる中、カシミール地方ではそれに水を差す動きが出ていた。ヒマラヤ戦線の中国軍とパキスタン軍が一斉攻勢に出て、インドが制圧していたラダック地方のアクサイチンとパキスタンカシミールを奪還したのである。これはカシミール地方の領有権を握られたまま停戦が成立することを嫌った中国側の深謀遠慮だった。

 停戦ムード漂う中で虚を突かれたインド軍は占領地域から撃退され、インド国内に撤退した。インド側は反撃を計画するが、OAUがこれ以上の支援を渋った為、やむなく計画は中止された。こうしてカシミール地方における国境ラインは開戦以前の状態に戻ったのである。

 数日後、中立国であるネパールの首都カトマンズで中国・APC及びパキスタンと、インド・OAU及びバングラデシュ側の停戦交渉が行われ、両者は正式に停戦に合意した。

 

 

 

脚注

*1:2015年2月9日から10月12日まで続いた世界的規模の戦争。当初はアフリカの利権を巡るAPCとPEU間の争いであったが、途中参戦したAFTAが両者を屈服させて勝利を収めた。

*2:2008年に起こった第二次中越戦争を契機としてAPC軍への人的貢献を求められた日本が憲法9条を改定して創設した海外派兵部隊。自衛隊とは別の組織であり、隊員も外国籍の者で構成されている。2015年に勃発した第三次世界大戦では世界各地を転戦し、多大な戦果を挙げた。敗戦と同時に解隊されていたが、戦後、日本の国連PKO参加と共に再創設され、世界各地の紛争地域に投入された。

*3:近年になって登場した全く新しい概念の兵器。最大の特徴は脚部による歩行システムで、従来の車両では踏破不可能な不整地でも難なく突破出来る高い不整地踏破性能を誇る。平地での正面戦闘でこそ戦車に劣るものの、高い不整地踏破性を活かした奇襲などで威力を発揮する為、第三次世界大戦前後で各国の軍隊に急速に普及した。大きく分けて第一世代AWGSと第二世代AWGSの二つがあり、第二世代AWGSはヘリのような三次元機動能力を有する。

*4:「High‐mobility‐Armoerd‐Combat‐System(高機動装甲戦闘システム)の略称で、マグドネル・ダグラス・三菱(MDM)社が開発した三次元機動力を有する史上初の第二世代型AWGS。戦車とヘリの特徴を併せ持ち、第一世代型AWGSとは比べ物にならないほどの性能を誇る。前大戦を通じて活躍し、地上戦に革命をもたらした。

*5:南アフリカ国防軍では空軍がヘリを運用する伝統があり、その更新として配備された第二世代型AWGSを運用する部隊も空軍に所属している。

*6:従来のフォルクスパンターにデネル社製の改修キットを装着した南アフリカ軍仕様の特殊バージョン。弱点であった装甲防御力が僅かに改善されている他、夜間暗視装置などがより高性能なものに換装されている。武装も変更されており、右腕に90mm低圧砲、左腕に30mmガトリング砲という変則的なスタイルになっている。

*7:ロシアが2007年に制式化した第四世代戦車。主砲は140㎜滑腔砲で、自動装填装置の採用で砲塔が無人化されている為、乗員は車長と操縦士の二名のみとなっている。セラミックを多用することでタービンの入り口温度を高め、燃焼をディーゼル並みに高めた新型のガスタービン・エンジンを採用しており、戦車としては最も高速な部類に入る。初代ガングリフォンに登場したPT5と同型の車両と思われる。

*8:大戦後はアメリカによるGPS(グローバル・ポジショニング・システム)規制が行われていたが、アメリカ内戦勃発後にロシア・中国が相次いで衛星を打ち上げ、これに対抗する形でインドも追従し、それぞれ自国版GPSを立ち上げていた。GEU諸国はロシアのものを、APC諸国は中国のものを、南アフリカ・OAUはインドのものをそれぞれ利用している。本作では北部連邦によるサテライトキラー打ち上げにはこれらを一掃する目的も含まれていたという設定とした。

*9:戦後に米国から返還された9式の改良型。背部のロータリーディーゼルターボの小型化によってトップヘビーの問題を解決しており、性能のバランスが良くなっている。武装は9式と同じ120㎜低反動滑腔砲で、より強力な新型貫通砲も使用出来る。

*10:戦後にタイ、マレーシア、シンガポールが共同開発したAWGSで、小振りな車体と猿のような独特の歩行システムが大きな特徴。固定武装は30㎜機関砲のみだが、オプションとしてATMも装備可能。