仮想戦記第三弾。APCとPEUがシベリアで争っている隙を突き、南アフリカ・OAUが強力な重装AWGS部隊を以て再び中東地域に侵攻。イスラエルとの戦いで疲弊したアラブ連合軍を撃破してスエズ運河と紅海を封鎖し、世界経済は大混乱に陥る。追い詰められた中東諸国はAPCに支援を要請し、中国軍と日本外人部隊が中東の砂漠に降り立った。
第三章 中東戦役
新たな戦火
2021年7月、ヨルダン南部ワディ・ラム。
アメリカに続くロシアの崩壊は世界に大きな混乱をもたらした。サンクトぺテブルグとウラジオストクの壊滅から一週間後には超党派の議員による臨時の暫定政府が成立したものの、その間にシベリアだけでなくカフカス地方の複数の共和国も独立を宣言。この混乱はロシアと国境を接する周辺諸国にも飛び火し、紛争の頻発や大量の難民の発生によって収集のつかない混乱状態となったのである。PEU側は無政府状態となったロシアの混乱を収拾するのに手一杯で、APCとの戦争を継続する余力はなくなっていた。
一方のAPC側もウラジオストクへの核攻撃を受けて大混乱となり、事態の収拾だけで手一杯となっていた。不幸中の幸いと言うべきか、過激派側が予め投下地点を予告していたことと住民の避難がスムーズに運んだ為に被害は最小限に抑えられたものの(未然に阻止された二発のミサイルの目標は北京とベルリンにセットされていた)、中国政府内部では核による報復攻撃を主張する声も上がっていた。
が、核ミサイルの発射が中国の支援した旧共産党派を主体とするロシア連邦軍残党過激派によるものであったことと、ロシアの行政府自体が消滅していて報復する主体が既に存在しないこともあって核戦争の危機は回避された。もっとも、これは表向きの理由であり、実際には中国が核を使用すれば同様の報復措置を行う可能性があるというアメリカ西部連邦と北部連邦からの通告が効いたのであった。
とは言え、中国国内の混乱が酷いこともあり、ロシアからの攻撃がなくともこれ以上の戦闘継続は難しい情勢であった。ロシア国内の各共和国の独立の動きは中国国内の各少数民族自治区の独立運動を刺激せずにはおかず、中国全土で独立に向けた動きが加速していたのである。また、シベリア侵攻の失敗で他の加盟国の間にも厭戦機運が広まっており、東南アジア諸国を中心にこれ以上の兵力供出を拒む国が続出していた。
しかし、APCとPEUの政府当局者が最も懸案したのはロシア国内に大量に残された核兵器の存在であった。この混乱に乗じて総数一千発以上とも言われる大量の核兵器がロシア国外に流出すれば、国際社会のみならず自勢力にとっても大きな脅威となることを両者は良く認識しており、それらを未然に防ぐ必要があったのである。
こうして2021年7月14日、APCとPEUは停戦に合意し、ロシアからの両軍の撤退と同国の混乱収集に向けて協力することで一致した。この交渉にはシベリア共同体の代表も参加したが、中国・ロシア共に国内に多くの独立問題を抱えていることもあり、シベリア極東部の僅かな共和国のみが独立を認められただけで、残りの共和国に関しては自治権の拡大のみに留まった。この中国政府の裏切りにシベリアの人々は憤慨し、多くの不満を残す結果となった。
また、独立を達成した各共和国の状況も決して楽観出来るものではなかった。APC・PEU両陣営の戦いで交通の大動脈であるシベリア鉄道が各所で破壊・寸断されていた上に、先の異常寒波とカムチャツカ半島の火山噴火による日照不足、ウラジオストクへの核攻撃による放射能汚染の影響もあって住民の流出が加速。このような状態では経済的な自立は難しく、結局はヨーロッパ諸国や中国の資本に頼らざるを得ない状況に逆戻りしていた。多大なる流血と引き換えにシベリアが得たものは、破壊と荒廃だけだったのである。
一方、チェチェン、タゲスタン、イングーシの三共和国が連携してロシアからの独立を目指したカフカス地方では再編されたロシア軍との紛争が継続された。この機にロシアの更なる弱体化を狙うグルジアやアゼルバイジャン、そしてトルコも密かにこれを支援した為、カフカス地方では泥沼の紛争が続くこととなった。
こうしてアメリカが内戦で分裂し、APCとPEUが疲弊した正にその時、中東進出を窺うOAUにとって絶好の機会が訪れたのである。
2021年5月、まだシベリアでの戦いが続いている頃、中東でも新たな戦火が巻き起こっていた。エジプト、シリア、ヨルダンを中核とする中東諸国が一致団結してイスラエルに侵攻したのである。中東諸国とイスラエルはイスラエルの建国当初から対立を続け、数度に渡る中東戦争を戦ってきた歴史があったが、戦いは総じてイスラエル側優位で進み、中東諸国は劣勢に立たされてきた。
しかし、2005年にアメリカがモンロー主義を掲げてAFTAを成立させた頃からその状況に変化が生まれた。これまでアメリカの支援に助けられてきたイスラエルは、アメリカが孤立主義を掲げて中東情勢から手を引いたことで孤立を強めることになったのである。この間にも度々中東諸国との紛争を経験したイスラエルであったが、南の国境を接するエジプトが第四次中東戦争以来の融和路線を継続していたことと、隣国リビアとの紛争に掛かり切りであったこともあり、大規模な攻撃が加えられることはなかった。
この状況が決定的に変化したのが2015年に勃発した第三次世界大戦であった。この大戦の切っ掛けとなった北アフリカの戦いにおいて、エジプトは同盟を結んだ中国・APC軍と共にPEU・リビア軍と戦ったが劣勢に追い込まれ、国土の荒廃を恐れたエジプト政府は降伏を決意する。しかし、エジプト政府の行動を予期していた中国政府は軍部の右派勢力を抱き込んでクーデターを起こし、臨時政府を樹立させて強引に戦争継続を発表させてしまう。結局、PEU側の足並みの乱れもあって北アフリカの戦いはAPC・エジプト連合軍の勝利に終わったが、この際にエジプトに成立した右派政権はこれまでのイスラエルに対する融和路線を放棄し、強硬路線へと転換していたのである。
それでも戦後は国際社会に復帰したアメリカの軍事的プレゼンスがあった為、イスラエルが自国の安全を脅かされることはなかったが、そのアメリカが内戦で分裂したことにより再び危機的状況が訪れようとしていた。内戦の影響でアメリカの介入はないと見て取った中東諸国が、今度こそイスラエルを屈服させる為に行動を起こしたのである。
その主力はイスラエルと国境を接するエジプト、シリア、ヨルダン、レバノンの四か国で、サウジアラビアやUAE(アラブ首長国連邦)、オマーンなどの湾岸諸国と、モロッコ、リビア、チュニジアなどの北アフリカ諸国の支援も受けて三方からイスラエルに侵攻を開始した。
これに対し、イスラエル側は精鋭の機甲戦力を以て防衛戦を展開。メルカバMk2戦車*1やジェリコ*2、メギド*3といった重装甲のAWGSを前線に張り付けて敵軍の侵攻を良く防いだ。航空戦力の優位もあり、イスラエル軍は開戦当初こそ戦いを有利に進めた。
しかし、アラブ連合軍は第四次中東戦争時の戦訓を参考にロシア製のBMX‐30や2S6Mツングースカ、イギリス製のバリアントといった対空兵器で強力な対空防衛網を構築し、侵入してくるイスラエル空軍機を次々に撃墜。イスラエル空軍の動きを封じる作戦に出る。
空軍機の消耗と共に戦局は次第にイスラエル軍不利に傾いていく。イスラエル軍はそれでも各所で健闘を見せていたが、数の上では圧倒的優位を誇る中東諸国の前にジリジリと押され、防衛線は徐々に後退。北部から南下して来た共和国親衛隊と第4及び第9機甲師団を主力とするシリア軍機甲部隊によってゴラン高原を奪回される事態に陥った。
一方、東からはイギリス製のチャレンジャー2戦車やバリアントMk2*4、ハイランダー二脚歩行戦闘車を装備したヨルダン軍第3機甲師団と、その精鋭部隊である第40機甲旅団がヨルダン川を超えてイスラエル領に侵攻。南からもアメリカ製のM1A3戦車と中国製の13式装甲歩行車を装備したエジプト軍機甲部隊がシナイ半島を北上してイスラエル領に侵攻し、ガザ地区に迫っていた。イスラエルは第四次中東戦争以来の危機に陥ったのである。
この危機的状況に、イスラエルは関係の深いトルコに支援を要請する。しかし、ロシアとの戦いで中東諸国の支援を必要としたトルコは表立ってイスラエルを支援することは出来ず、侵攻にも消極的な非難声明を出すに留まった。
焦ったイスラエル政府はここにきて南アフリカ・OAUに支援を要請し、中東地域への軍事介入を求めた。OAUの盟主である南アフリカは過去にイスラエルから核兵器開発で協力を受けたこともあり、冷戦時代から浅からぬ関係を持っていた。
当の南アフリカ政府にとってもこの要請は望むところであった。南アフリカ政府は中国・APCとの戦争終結直後から中東侵攻の準備を進めており、既にスーダン国内に部隊を集結させつつあったのである。イスラエルの支援要請は、南アフリカ・OAUにとって中東侵攻の絶好の口実となる。
こうして2021年6月、中東の紛争解決を名目に南アフリカやアンゴラ、ナイジェリア、エチオピア、ケニア等を主力とするOAU軍がスーダンからエジプトに侵攻。貧弱な国境防衛部隊を破ってナイル川沿いに北上し、一路カイロを目指した。これに先立って対APC戦でも活躍した南アフリカ空軍特殊コマンド空挺連隊と陸軍の精鋭第44落下傘旅団を主力とするOAU軍の緊急展開部隊がエジプトに一足早く侵攻し、南部の主要都市であるアスワンに空挺降下。エジプト軍の駐留するアスワン・ハイ・ダムを抑えて主力部隊の侵攻を支援した。
OAU軍の侵攻をある程度予想していたエジプト政府は、精鋭の機甲師団を主力とする防衛部隊をカイロの南約130kmのベニ・スエフ近郊に展開して首都防衛の構えを取る。この機甲師団はアメリカ製のM1A3戦車を装備した重装部隊で、兵器の性能だけで言えばOAU軍と互角以上に渡り合えるだけの能力を持っていた。しかし、先の大戦と2018年のOAUによるスエズ侵攻*5で部隊の損耗が激しく、実際の稼働率は半数を割る状態であった。
中国・APCとの戦いを潜り抜けて来たOAU軍にとって、弱体化したエジプト軍は敵ではなかった。OAU軍は南アフリカ陸軍砲兵部隊のG6ライノ155㎜自走榴弾砲による準備砲撃を皮切りに、ドイツ製のレオパルド3戦車と南アフリカ製のTTD戦車*6で武装した機甲部隊を以て進撃。そのやや後方からはイタリア製サティロス*7やルーイカット装甲車を装備した軽装部隊が進出し、更に上空からもAH‐2ロイファルク対戦車ヘリ*8を主力とする南アフリカ空軍の航空部隊*9が主力部隊の突破を支援した。
このOAU軍の猛攻にさしものエジプト軍機甲部隊も押し込まれ、戦線は徐々に後退。更に、後方から現れたエレファント部隊の砲撃が始まるとエジプト軍の戦車やAWGSは次々に撃破され、隊列を乱して潰走した。
ベニ・スエフの戦いで勝利したOAU軍は瞬く間に防衛線を突破して首都カイロを占領すると、そのまま進撃速度を落とさずにスエズ運河を制圧。更にシナイ半島北東部に進出してイスラエル侵攻中のエジプト軍主力の背後を突き、これを破ることに成功する。こうしてOAUは短期間の内にイスラエルとの連携に成功したのである。エジプト政府は既に首都を地中海沿岸のアレキサンドリアに移転させていたが、カイロとスエズ運河の制圧で降伏を迫られたも同然だった。
一方、南からの脅威がなくなったことで息を吹き返したイスラエルは、北部戦線に兵力を集中させての大反攻を企図。精鋭の第7機甲旅団と第188機甲旅団を中核とする機甲部隊を先頭にゴラン高原に突撃し、エジプト軍の崩壊で浮足立つシリア軍を破って国境まで押し戻すことに成功する。更に、シリア軍の劣勢を受けて撤退を開始したヨルダン軍をヨルダン川東岸まで猛追し、航空戦力による猛爆撃を加えて壊滅的損害を与えたのである。
この事態に対し、アラブ側も黙って手をこまねいているわけではなかった。エジプト・ヨルダン両政府の救援要請を受けて、サウジアラビア領内に集結していた湾岸諸国の合同軍がシナイ半島に向かって進撃を開始する。その主力はサウジアラビア軍とUAE軍が誇る精鋭の機甲旅団で、エジプト軍と同じM1A3やフランス製のルクレール戦車を多数配備した強力な部隊であった。
一方、シナイ半島のOAU軍主力も進撃を再開し、イスラエル領を通過してヨルダン南部に侵攻。ワディ・ラム近郊に進出して進撃を続けるアラブ連合軍を迎え撃った。
この戦いに先立ち、ヨルダン・サウジアラビア国境上空では両者の空軍による航空戦が展開されていた。制圧したエジプト国内の空軍基地に集結していたOAU空軍は、ミサイルの傘がなくなったことで自由に行動出来るようになったイスラエル空軍と協力してアラブ側の連合空軍と交戦。西側諸国の最新鋭の戦闘機を揃えたアラブ側はOAU空軍の戦力を上回っていたが、パイロットの技量に優れるイスラエル空軍の活躍によって戦況はOAU・イスラエル軍側に傾きつつあった。
両者の空軍による空中戦が展開している頃、地上でも両軍の主力部隊が激突していた。巨大な山塊の前方に布陣したOAU軍に対し、アラブ連合軍は主力の機甲部隊を前面に出して突撃した。アメリカ製のM1A3やイギリス製のチャレンジャー2、フランス製のルクレールといった湾岸諸国の保有する高性能な戦車を武器に、発展途上国が多い為にやや性能に劣ると考えられたOAU軍戦車部隊を正面から撃滅しようとしたのである。
しかし、先のエジプト戦でも既に見られたように、実際にはOAU側の戦車部隊はそこまで貧弱なものではなかった。確かに発展途上国の軍には旧ソ連製の旧式戦車を主体とする部隊も存在したが、OAU軍の主力である南アフリカ軍が各機甲連隊に第四世代型のレオパルド3を配備していた上、エチオピアやケニア、ナイジェリアといった他の国々もOAU軍の共通戦車構想に基づき第三世代戦車に相当する南アフリカ製TTDの導入を進めていた(レオパルド2に相当する性能と考えられた)。また、エジプト軍から鹵獲した大量のM1A3戦車を戦力化していたこともあり、戦車戦力の差はアラブ側の思っている程には大きなアドバンテージとはならなかった。むしろ、戦力に大きな開きがあったのは両軍のAWGSの性能であった。
ヨルダン南部で両軍が激突する少し前、OAU軍はエジプトの紅海沿岸からIl‐76輸送機の編隊を出撃させ、密かにサウジアラビア領内に部隊を送り込んでいた。ここで重要な働きをしたのが先の戦いでも活躍した南アフリカ軍の空挺コマンドと第44落下傘旅団落下傘対戦車大隊であった。両隊はヨルダン南部で戦うOAU軍の主力を支援する形でアラビア半島に空挺降下し、交戦状態に入ったアラブ連合軍の背後を急襲した。
この戦いには従来型のフォルクスパンターSAVに混じって新型の第二世代型AWGSである南アフリカ製ボスファルク*10も投入されていた。フォルクスパンター同様、ボスファルクもヤークトパンターの設計を流用して開発された機体であったが、武装や装甲といった基本性能の面で廉価版のフォルクスパンターを遥かに超える性能を有しており、ヤークトパンターに乗り慣れた元降下猟兵旅団のパイロット達にとっても非常に扱いやすい機体であった。
これに対し、アラブ連合軍が装備するのはフランス製のAUTRUCHEやイギリス製のバリアント、ロシア製BMXといった軽量型の第一世代AWGSが多く、第二世代AWGSは一機も配備されていなかった(サウジアラビアが少数のヤークトパンターを導入していたが、パイロットが訓練不足で三次元機動に慣れていなかったこともあり、消耗を恐れて後方に配置されていた)。また、AWGSの運用も稚拙そのもので、戦術も十分に確立されていなかった為、三次元機動を駆使する第二世代AWGSに対応することなど不可能に近かったのである。アラブ連合軍は戦車戦力こそ強力であったものの、先の大戦で登場した第二世代AWGSが戦局に与える影響の大きさを十分に理解していなかった。
アラブ連合軍は後方からの予期せぬ奇襲にパニックに陥った。空挺コマンドのボスファルクはその高い三次元機動力を活かしてトップアタックを仕掛け、アラブ連合軍の戦車やAWGSに反撃のチャンスすら与えずに撃破していった。そこにロシア式の逆噴射ロケット方式で同時に降下した第44落下傘旅団落下傘対戦車大隊に配備されたフォルシルム・パンター*11の攻撃も加わり、アラブ連合軍は悲劇的な状況に追い込まれた。
戦いは一方的なものとなった。アラブ連合軍は前方から迫りくるOAU軍のレオパルド3やエレファント部隊に蹂躙され、後方から現れた空挺部隊のボスファルクやフォルシルム・パンターに挟撃されて壊滅し、僅かに残存した部隊も東へと向かって敗走を始めた。戦いの後に砂漠に残されたのは、夥しい数のアラブ連合軍の兵器の残骸であった。
この時点で中東地域にOAUに敵対する勢力はなくなったと言って良かった。カイロとスエズ運河を占領されたエジプト政府は既に虫の息同然であり、シリア軍とレバノン軍はイスラエル軍の猛反攻を受けて撃退され、逆にイスラエルの侵攻に備えなければならない状態に追い込まれていた。ヨルダンはOAU軍に紅海を望む要衝アカバを抑えられて屈服寸前となり、頼みの綱のサウジアラビアや湾岸諸国も国内の防衛に手一杯で、とてもエジプト政府を救援する余力は残っていなかった。
戦意を挫かれたエジプト政府はイスラエル・OAUと単独で停戦合意を結び、早々に戦線から離脱してしまう。エジプト政府のこの行動は他の中東諸国の士気を大いに下げることとなり、各国は勝手に撤退を始めてしまう始末だった。こうして戦争はなし崩し的にイスラエル・OAU側の勝利に終わった。
中東諸国はイスラエルとの停戦に合意したものの、OAU側は平和維持軍として引き続き中東に部隊を駐留させることを決定。各国に莫大な駐留費を負担することを要求し、中東諸国がこれを拒否するとスエズ運河を封鎖した上、各地の油田に部隊を送って占領するという暴挙に出たのである。中東諸国はここに来て遂に中国・APCに支援を求めた。
しかし、中国国内の混乱もあってAPCは既に空中分解したに等しく、APC軍として大規模な派兵を行うことは不可能になっていた。それでも中東の産油地域をOAUに奪われることは死活問題であった為、中国と日本の緊急展開部隊を先遣隊として派遣することを決定。これに応じて中国は蘭州軍管区の第15集団軍から1個空挺師団をサウジアラビアに派遣。中東からの石油に頼る日本もシベリアから撤退して来た第503機動対戦車中隊と新設された第504機動対戦車中隊(ファントム)を第2空中機動師団として再編し、イラン経由でサウジに派遣した。尚、この派遣に際しては中東諸国と西部連邦から日本政府に対してそれぞれ資金・食糧援助が行われた。
中東の油田地帯をOAUに渡せないのはアメリカ西部連邦も同じであった。北部連邦との戦いで兵力を動かせない西部連邦としては、財政的に厳しい状況に陥っていた日本の派兵を援助することで間接的に中東諸国を支援する必要があったのである。中東諸国からの支援要請が来た7月の時点でアメリカ大陸では北部連邦と西部連邦の間に再び戦端が開かれており、第502機動対戦車中隊が増援としてアメリカ大陸に送られていたこともあり、西部連邦としては日本を味方に着けておきたい事情もあった。中国政府はこのことを関知していたが、日本の派兵は中国の国益に適うことでもあった為、敢えて黙認した。
APC軍の到着により中東諸国の崩壊は辛うじて回避されたが、彼らを取り巻く状況は決して良いものではなかった。地理的に大部隊の派兵が困難なAPC軍は自然、空挺部隊を主力とする軽装部隊中心の編成にならざるを得ないのに対し、OAU軍側は既に制圧したエジプトを通過するだけでアフリカ大陸から中東地域に重装備の部隊をいくらでも送ることが出来る地の利があった。
また、味方の筈のアラブ連合軍も当てには出来なかった。先の戦いで受けた損害が回復していないこともさることながら、アラブの兵は勝っている時は士気が高いが、少しでも状況が悪くなると途端に士気が下がる傾向があり、それぞれが勝手に行動して協調性に欠ける嫌いがあった。それは先の対イスラエル戦を見ても明らかであり、戦況次第ではエジプトのように早々に戦線離脱する可能性があったのである。
プレトリアに置かれたOAU軍総司令部はこうしたAPC側の不利を見越しており、APC軍の兵力補充が本格化する前に決着を着けることが勝利の鍵であることを理解していた。シナイ半島を通ってアフリカ大陸から続々と送られてくる南アフリカ・OAU軍の重装部隊。対するは中国・日本の2個空挺師団からなるAPC軍と、結束に問題を抱えたアラブ連合軍。日本外人部隊にとって苦しい戦いが再び始まることとなった。
市民救出
2021年8月、サウジアラビア北西部・ネフド砂漠。
大方の予想に反し、OAU軍によるサウジ侵攻は中々開始されなかった。ベニ・スエフとワディ・ラムにおける二度の大勝にも関わらず、OAU軍主力部隊はヨルダン南部の前線基地に駐留したまま動こうとせず、南アフリカ政府もまた慎重に情勢を見極めていた。アフリカ大陸からの増援もあって現地のOAU軍側はサウジ侵攻を可能とするだけの十分な戦力を整えていたものの、大きく分けて三つの理由からサウジへの侵攻を先延ばしにしていた。
一つはサウジを始めとするアラブ側の空軍力が未だ健在であり、制空権を得にくかったことが挙げられる。OAU軍側もシナイ半島やヨルダン南部の航空基地に航空戦力を集めつつあったが、それはあくまでも防空用の戦力であり、単独でアラブ連合空軍を打ち破れる程の戦力ではなかった。今までは強力な空軍力を持つイスラエル空軍がその弱点を補っていたわけだが、そのイスラエルが既に中東諸国と停戦して紛争から離脱したこともあり、空軍力にはやや不安が残っていた。
第二の理由はサウジの首都リヤドを制圧するには広大なネフド砂漠を越える必要があることで、ヨルダン国境から700㎞近い縦深を持つリヤドを攻略する為には補給体制の構築も含めて相応の準備が必要だった。また、サウジ国内にはかつて米軍が建設した軍事拠点が複数存在し、そこにアラブ側の部隊が駐留していることから、長大な補給線を維持するだけの兵力や準備も欠かせなかった。
しかし、南アフリカ政府が何よりも恐れたのは敬虔なイスラム教国家であるサウジアラビア本土に直接侵攻することで逆にアラブ側の結束を強めさせ、戦争努力を呼び込んでしまう可能性があることであった。サウジアラビアは国内にイスラム教の聖地メッカを抱えていることもあり、本格的な軍事介入を行えば湾岸諸国だけでなく、OAU加盟国でもあるリビアやアルジェリア、モロッコといったイスラム諸国がどのように反応するかは不透明な情勢であった。
特に南アフリカ政府が注視していたのが、目下のところ対OAU戦には参戦していないイランとイラクの動向であった。宗派の違いもあってサウジと対立するイランは表向きには中立の立場を取っていたが、中国・APCとの関係が深いこともあり、APCへの支援を通して間接的に中東諸国を援助する形となっていた。
一方、イラク側は国内の守りを固めて静観を決め込み、OAUにも中東諸国にも一定の距離を置いて事態を見守っていた。中東諸国の盟主の座を狙うイラク政府としては、OAUの侵攻によってサウジが弱体化するのは願ってもない状況であったが、その火の粉が自国に掛かるようであればいつでもアラブ側に立って参戦する用意があった。イラク軍が保有する機甲戦力は数の上ではエジプトと伍するものがあり、旧ソ連製の旧式戦車が主体とは言え、侮れないものがあった*12。
また、リビアやアルジェリア、モロッコといった北アフリカ諸国も今回のエジプト侵攻には元々反対の立場を取っていたことから、どのような動きをするか予断を許さない情勢であった。
こうした事情から南アフリカ政府は大部隊によるサウジ国内への直接侵攻は避け、政治工作による中東諸国の切り崩しを図る一方、アラビア半島対岸のスーダンやエリトリア、ソマリア等からサウジ国内への破壊工作を敢行。戦闘機による支援の下、AH‐2ロイファルク戦闘ヘリや特殊部隊を送り込んでヘジャス沿岸地域のレーダー施設や石油精製施設への攻撃を繰り返した。同国の防空レーダー網を破壊して侵攻の意志を見せつつ、産油量を低下させることで経済的に揺さぶりを掛け、エジプト同様に戦争継続の意志を折ろうとしたのである。南アフリカ政府としてはサウジアラビア政府を追い詰めて交渉のテーブルに着かせ、OAU側に有利な形で停戦交渉をまとめることが出来れば自ずと中東諸国は瓦解するだろうと見ていた。
実際、この予測はかなり正確にアラブ側の実情を見抜いていた。サウジアラビア政府はOAUによるスエズ運河の封鎖と石油精製施設への攻撃で苦境に追い込まれており、政府内部には即時の停戦を望む声も上がっていた。また、他の中東諸国もサウジ同様に先の敗戦で士気が下がっており、ヘジャス沿岸域への奇襲のように戦火が自国に及ぶことを恐れていた。OAU側の攻撃はサウジ国内だけでなく、アラブ側の結束をも揺さぶっていたのである。
APC軍の到着はそうした悪い空気を払拭する上で大きな効果があった。8月にサウジ入りして以来、中国軍空挺師団と日本外人部隊の第2空中機動師団はリヤドからそう遠くない、キング・ハリド軍事都市に駐留していた。そこはかつてアメリカがサウジ防衛の為に建設した要塞都市で、滑走路や防空システムだけでなく、兵員用の住居や娯楽施設まで完備した一大軍事拠点であった。サウジ国内にはこうした軍事都市がキング・ハリドを含めて三つあり、もしOAU軍がサウジ領内に侵攻して来た場合はこれらの都市から発した部隊で足止めしつつ、敵の補給線が十分に伸び切ったところで陸軍と空軍の総力を結集して叩くというのがAPC・アラブ側の戦略であった。第2空中機動師団はその作戦の要であり、もしOAU軍の侵攻が実行された場合、その打撃力を以て強烈なカウンターパンチの役目を果たすことが期待されていた。
こうしたアラブ側の徹底した防衛態勢は結果的にOAU軍によるサウジ侵攻を牽制する役目を果たし、政治工作と破壊工作によるアラブ側への切り崩し工作へと方針を転換させることとなったのである。
しかし、それにも関わらずサウジ側は中々交渉のテーブルに着こうとしなかった。これはペルシャ湾側からの航路が確保されていた為で、多くのタンカーがインド洋を通ってアジア太平洋地域やアメリカ大陸に石油を供給していたこともあり、サウジアラビアは何とか持ちこたえることが出来ていた。
また、この時には東南アジア諸国やアメリカ西部連邦の要請を受けたオーストラリアも域外協力として中東への部隊派遣を決定しており、世界的にサウジアラビアを支援する体制が着々と整いつつあったのである。
業を煮やした南アフリカ政府は同盟を組むインド政府に掛け合い、インド海軍を以てペルシャ湾を封鎖するよう要請する。度重なる軍拡によって強大化したインド海軍は今や中国海軍に代わるアジア最大規模の戦力となっており、空母部隊を以てペルシャ湾を封鎖すれば中東諸国が追い詰められるのは必定だったが、インド側はこれを拒否した。
先の中国との戦いでOAU側が協力を渋ったことを忘れていなかったこともさることながら、ペルシャ湾の封鎖は敵対するパキスタンや中国、引いてはアメリカの参戦を招く恐れがあり、戦後の国際社会の中でリーダーシップを発揮したいインドとしてはそのような国際秩序を乱す提案に乗れるわけもなかった。先の戦いでOAUと組んだのはあくまでもチベット併合の挙に出た中国に対抗する為であり、OAUの中東侵攻には大義がないというのがインド政府の立場であった。
インドに見切りを着けられた南アフリカ政府は、新たなパートナーを探す必要に迫られる。そこで白羽の矢が立ったのがイラクであった。南アフリカ政府はサウジに代わって中東の盟主の座を狙うイラクに接近し、戦後のクウェート・サウジ油田地帯の一部割譲を餌に自陣営への取り込みを図ったのである。かねてからクウェートの油田地帯を欲していたイラク政府はこの提案に乗り、水面下でOAUと秘密協定を結んだ。
イラク側の協力を取り付けたOAUは、APC軍の主力が未だ到着していないこのタイミングを最大限に活かしてヨルダンを屈服させることを画策。プレトリアのOAU軍総司令部の指令を受けて、南アフリカ、アンゴラ、エチオピア、ケニア、ナイジェリア等の機甲部隊を主力とするOAU軍主力部隊がアンマンを目指して進撃を開始した。
これに対し、リヤドに置かれたAPC中東派遣軍司令部はヨルダンの救援と積極攻勢を提案するが、湾岸諸国は慎重な姿勢を示して中々動こうとしなかった。サウジを始めとする湾岸諸国は先の敗戦ですっかり士気が落ちており、国境を固めてサウジ本土を防衛することしか考えられなくなっていたのである。ヨルダンと国境を接するシリアもゴラン高原でイスラエル側との散発的な戦闘が続いていた為、部隊を動かせない状態であった。
アラブ側の士気の低下は既に予見されていたことであったが、ヨルダンを見捨てることはサウジの求心力を更に下げることになる。これを避ける為、APC軍司令部は日本外人部隊の第503機動対戦車中隊をヨルダン中部のカラクに急派した。奇襲攻撃を繰り返してOAU軍主力部隊の進撃を少しでも遅らせる作戦であった。
祖国防衛に燃えるヨルダン軍の奮戦もあり、APC・ヨルダン軍は各所でOAU軍側に少なくない損害を与え、その猛攻を度々跳ね除けた。しかし、こうした小さな勝利では戦局そのものを覆すことは出来ず、カラクは陥落。時を置かずにアンマンも陥落し、ヨルダンは成す術なく占領された。
この間、アラブ諸国の再三再四の要請にも関わらず、イラク側は国境の防備を固めたまま動かなかった。それどころか、アラブ連合空軍の領内通過を拒否してアラブ側のヨルダン救援の動きを阻害する動きを見せていたのである。イラク政府がOAUに加担していることは誰の目にも明らかであった。
一方その頃、サウジアラビア沿岸地域ではOAU軍特殊部隊による度重なる攻撃が功を奏し、サウジアラビアの防空レーダー網に綻びが出始めていた。更に、イラク空軍の戦力が加わったことでサウジ侵攻が可能な状況が着々と整いつつあった。
イラクは2005年のAFTA締結によるアメリカの国際社会離脱以降、中国・APCと接近した隣国イランに対抗する為、フランスやロシアといったPEU諸国と接近し、関係を深めてきた。これは中東地域における軍事プレゼンスを高めたいPEU側の思惑とも一致し、リビア同様に両国から最新鋭の兵器を購入したり、多少旧式化した兵器の無償供与を受けて湾岸戦争で受けた損害を回復することに成功していた。この過程でイラク空軍もSu‐27フランカーやミラージュ2000といった第四世代戦闘機を一定数取得しており、戦力的にはサウジ側とも十分対抗出来る能力を保有していたのである。皮肉にも、このAPCとPEUの代理戦争が残した置き土産が結果的に南アフリカ・OAUによる中東侵攻を手助けすることとなった。
こうして全ての準備が整った2020年9月、OAU軍は遂にサウジ領内に侵攻した。APC・アラブ連合軍もこれを迎撃する構えを見せ、両軍はジャウフ州サカーカ近郊の砂漠地帯で再び対峙した。
しかし、ここでOAU側も予想しなかった出来事が起こる。OAU軍のサウジ侵攻と同時にイラク軍がクウェートに侵攻し、首都クウェートに向かって進撃を開始したのである。その主力は共和国防衛隊の「ハンムラビ」、「メディナ」の2個機甲師団と、「タワルカナ」の1個機械化歩兵師団で、ロシアから供与されたT‐10戦車やBMX歩行戦闘車が優先的に配備された精鋭部隊であった。
クウェート軍は先の湾岸戦争の経験からイラク側の動きを警戒してはいたが、数に勝るイラク軍を押し止めることが出来ず、開戦からものの十数時間の内に壊滅状態となり、組織的抵抗は出来なくなってしまう。早くからイラク側の動きに疑念を持っていたAPC軍中東派遣軍司令部は第504機動対戦車中隊をクウェートに派遣し、クウェート市民の脱出援護に当たらせる。
第504機動対戦車中隊の12式16機はクウェート市内に突入すると、クウェート市民救出の為に派遣されたCH‐47チヌーク輸送ヘリ部隊の降下ポイントを確保。収容作業を妨害する為に押し寄せて来たイラク軍の攻撃からヘリを護衛し、避難民の撤退を支援した。同中隊の活躍もあって多くのクウェート市民がサウジアラビアに逃れることが出来たが、圧倒的物量の敵部隊を防ぎ切ることは出来ず、クウェートはイラクの占領下に置かれることとなった。
このクウェート侵攻はOAU側にも事前の通告がなされずに行われたものであった為、OAU側は抗議したが、イラク政府は意に介さなかった。イラク政府はOAU側の口約束など鼻から当てにしておらず、湾岸諸国が混乱している隙に少しでも領土を拡大し、既成事実化することで戦後の中東諸国における優位の確立を目指していた。OAUがまたそうであるように、イラク政府にとってもOAUは自国の国益を実現する為の便利な駒に過ぎなかったのである。
このようにOAU側とイラク側の思惑は当初から隔たりを見せており、その連携にも大きな問題を抱えていたが、それでもイラク軍の戦力はAPC・アラブ側にとって大きな脅威となった。
この間にもサカーカでは両軍の主力部隊が激突しており、戦いは勢いに乗るOAU軍の優勢の内に進んでいた。クウェート側からのイラク軍の攻撃に備えて戦力を分散したAPC・アラブ連合軍は苦しい戦いを強いられ、OAU軍の猛攻に押されて戦線は後退していた。第503機動対戦車中隊はこの状況を挽回するべくキング・ハリドから出撃し、敵主力部隊の後方に降下する。
しかし、南アフリカ軍は過去にスエズ運河で同中隊と戦った経験からHIGH‐MACSを寄せ付けない戦術を確立しており、火力を集中して同中隊につけ入る隙を与えなかった。HIGH‐MACSは機動力こそ他の兵器を圧するものがあったが、装甲そのものは装甲車並みであり、エレファントの140㎜滑腔砲は言うに及ばず、戦車砲弾の直撃にも耐えることは出来なかった。この弱点を補う為に三次元機動があり、地形に身を隠して戦える自由度があったのだが、遮蔽物の一切ない砂漠ではそれも通用しなかった。
おまけにAWGS自身の車高の高さと見通しの良さが相まってかなり遠くからでも敵に発見され易く、攻撃に備えて防衛態勢を固めていた南アフリカ軍に対しては奇襲効果もほとんど期待出来なかった。先のイスラエル戦を見るまでもなく、砂漠の戦いでものを言うのは何よりも厚い装甲と強力な砲であり、この状況下ではその二つを兼ね備えたエレファントとレオパルド3は大きな脅威であった。
南アフリカ軍はサティロスやバリアントの集中砲火で接近しようとするHIGH‐MACS部隊の動きを足止めしつつ、エレファントやレオパルド3の砲撃を同中隊に浴びせた。更に、そこに後方に配置されたツングースカのATM攻撃が加わる。このような南アフリカ軍の巧みな戦術もあって同中隊の攻撃は完全に食い止められ、挟撃作戦は失敗に終わった。
それでも戦線正面のAPC・アラブ連合軍は何とか踏みとどまり、勇戦を見せていたが、戦いが最高潮に達した頃、APC・アラブ連合軍の背後に南アフリカ軍空挺コマンドと第44落下傘旅団落下傘対戦車大隊が空挺降下した。再び舞い降りたボスファルクとフォルシルムパンターの猛攻を受けてAPC・アラブ連合軍の戦列は瞬く間に崩壊し、指揮系統も壊滅。統率も何もない、惨めな敗走が始まった。
日本外人部隊はここでも殿を努め、味方の撤退を支援した。偶然発生した激しい砂嵐のお陰もあってAPC・アラブ連合軍は何とか敵の追撃を振り切ることが出来たものの、大きな痛手を負っていた。第503機動対戦車中隊も甚大な被害を負い、その戦力を半減していた。
そこに追い討ちを掛けるように、クウェートに駐留していたイラク軍のサウジ侵攻の報が入った。クウェート南部からサウジに侵攻したイラク軍は、イラク側の動きに備えて配置されていた湾岸諸国の防衛部隊を破って進撃を続け、ペルシャ湾沿岸のカフジを制圧したのである。遂に戦火がペルシャ湾の油田地帯にも及んだことで、サウジ政府は更なる苦境に立たされることとなった。APC・アラブ連合軍の命運は風前の灯となっていた。
ミサイル発射阻止戦
2021年9月、イラク南部・バスラ。
サカーカの戦いで勝利したOAU軍は、補給を受けると直ちにリヤドに向けて進撃を再開した。事前の通告がなかったとは言え、イラク側の動きによってAPC・アラブ連合軍の戦力が分散された結果、OAU軍の進撃を阻む戦力は少なくなっていた。北から侵攻したイラク軍もほぼ無傷のままペルシャ湾沿いに進撃を続け、サウジの油田地帯制圧を狙っていた。
一方、サカーカの戦いで大敗したAPC・アラブ連合軍は満身創痍の状態となっていた。湾岸諸国はサウジ救援の為に増援部隊を派遣していたものの、いずれも人口の少ない小国であることもあり、その規模は余りにも小さいものだった。
この危機的状況を打開する為、中国政府が動いた。協力関係を結ぶイランに支援を要請し、アラブ側に立って参戦することを求めたのである。イラン側としては宗派も違う上に長年対立関係にあるサウジアラビアを援助することには抵抗があったものの、仇敵であるイラクはより危険な存在であり、その強大化を放置すればいずれ自国を脅かすことになるのはクウェート侵攻を見ても明らかであった。イラン政府は中国政府の要請に応えて密かに参戦を承諾し、イラク領への侵攻準備を開始した。
この時、イラン側は過去のイラン・イラク戦争を教訓として綿密な対イラク侵攻計画を練り上げており、この計画を基に早急にイラク南部を制圧してアラブ軍を支援するプランが策定された。
こうしてイラクとの国境地帯に大部隊を集結させたイラン軍は、9月11日未明に空軍機によるイラク領内への先制攻撃を敢行。イラク空軍の基地に駐機していた航空機を破壊して一時的な航空優勢を確立した上で、地上部隊によるイラク領への侵攻を開始した。これはイラン・イラク戦争で開戦と同時にイラク側の奇襲によって航空機を破壊され、劣勢に陥った教訓を生かしたのである。
イラク空軍はイラン側の動きに備えて警戒態勢を敷いていた為、この奇襲は当初予想された程の効果は上げなかったが、それでも少なくない損害とショックを与えることとなった。イラク政府はイランが対立するサウジと共闘する可能性は低いと見ていた上に、過去のイラン・イラク戦争において自軍が常に優勢を保っていた経験から、イラン側の軍事力を侮ってもいたのである。結果的に、こうしたイラク側の油断がイラン側の開戦初期の侵攻を容易にすることとなった。
三方からイラク領内に侵攻したイラン軍の主攻勢は南部のホラムシャハル方面で、国境沿いを流れるシャトル・アラブ川を越えてイラク南部の要衝バスラを制圧することを主目標としていた。
これに対し、イラク側はバスラ北東の土漠地帯にシャトル・アラブ川の運河の水を引き込んだ水壕や人口湖を作って旧ソ連式の防御陣地を構築し、その背後にBMXやT‐72戦車を配置して敵の侵攻に備えていた。この防御陣地はイラン・イラク戦争でも使われたものだったが、今回の戦いでも存分にその機能を発揮し、数に勝るイラン側の攻勢を良く食い止めた。
しかし、この展開はイラン側もある程度見越しており、密かにイラク側の防備が手薄な上流のハウイザ湿原に部隊を送り込んでいた。夜陰に紛れてハウイザ湿原に達したイラン軍は、過去に中国から大量に供与された90式Ⅱ型戦闘兵車*13とブラジル製の水陸両用AWGSラーナ*14を先頭に押し立てて多数の上陸用舟艇と共に進撃を開始し、ホラムシャハル正面の攻勢に誘引されて兵力の少なくなっていた対岸のイラク軍防衛隊を奇襲した。
イラク側はイラン・イラク戦争の経験から湿地帯の警戒も怠ってはいなかったものの、装甲車両が湿地帯を通過することは困難と見ていた為、重装備の部隊を他の防衛陣地に送り込んでいた。結果的にこの判断が裏目に出た。イラク軍の予測を裏切るように、水上浮航能力を備えたイラン軍の90式Ⅱ型戦闘兵車とラーナは湿原地帯を難なく突破し、対岸で警戒に当たっていたイラク軍の車両に目標を振り分けて一斉にATMを浴びせたのである。事態に気付いたイラク軍のMil‐24ハインドヘリ数機がすぐに支援に駆け付けたが、夜間ということもあり目標が視認しづらく、逆にイラン軍歩兵の装備する携帯式の対空ミサイルやラーナの30㎜チェーンガンの攻撃を受けて次々に撃墜された。
この間にも湿原では工兵部隊が湿地帯に浮き橋を掛けて部隊の渡河を進め、13式装甲歩行車やゾルファガール戦車*15が続々と湿地帯を渡っていた。これらの車両は先行渡河していた90式やラーナと合流して進撃を続け、バクダッドとバスラを結ぶクルナ近郊に進出して街道を遮断。更に、バスラ北東部の防衛陣地を背後から急襲してイラク軍を大混乱に陥れた。この隙を突いてホラムシャハル正面のイラン軍も攻勢を仕掛け、イラク軍の抵抗を跳ね除けてシャトル・アラブ川を渡河した。この緊急事態にイラク政府はすぐに増援部隊を向かわせたが、勢いに乗るイラン軍の猛攻を止められず、バスラ近郊までその進出を許してしまう。
イラン参戦の報を受けてサウジ侵攻中のイラク軍にも動揺が広がった。イラン国境から首都バクダッドまでは200㎞ほどしかない縦深の浅さもさることながら、バスラを抑えられると自軍の後退路を塞がれ、最悪の場合、イラン軍とAPC・アラブ連合軍に前後から挟撃される危険があったのである。イラク軍はここに来て進撃を停止し、クウェート占領の為の少数の部隊を残してイラク国内への撤退を開始した。
OAU側は踏み止まってサウジへ圧力を掛け続けるよう求めたが、イラク政府はこれを無視した。イラク側にしてみればクウェートを併合してその油田地帯を支配下に置いただけでも満足の行く結果であり、そのクウェートを保持する上でもイランの攻勢を防ぐ必要があったのである。
しかし、イラク政府の予想した以上に事態は深刻であった。イラク政府は当初、イランの侵攻はあくまでもサウジ方面でのイラク軍の侵攻を食い止め、OAU側の戦力を分散させることが主目的だと考えていたが、この予測は間違っていた。イラン政府はイラン・イラク戦争が泥沼化した経験を踏まえて大戦力を一挙に投入しての短期決戦を狙っており、この機にイラク南部一帯を制圧してイラク側の国力を削ぎ、あわよくばその体制を打倒することすら視野に入れて作戦計画を策定していた。
このイラン上層部の意志は末端の兵士達にも共有されており、中国製の兵器で武装したイラン軍は兵器の性能で言えばイラク側に劣っていたが、その人海戦術と犠牲を顧みない狂信的犠牲攻撃でイラク軍将兵を恐れさせ、イラク軍を各所で撃ち破った。
イラク軍の劣勢が主戦線の戦況に響くことを恐れたOAU軍司令部は、イラク軍支援の為に空挺コマンドをバスラに急派する。バスラは多くの石油資源が眠る油田地帯であると同時にイラクで生産された石油製品を海外に送り出す積み出し港でもあり、ここを落とされればイラクの戦争遂行能力に大きな打撃を受けることは必定であった。
一方、イラン参戦で俄かに士気を持ち直したAPC・アラブ連合軍はこの間に首都防衛の態勢を整えつつあった。APC中東派遣軍司令部はイラク方面での攻勢によって劣勢を転換するべく、イラン軍支援の為に中国軍空挺師団と第504機動対戦車中隊をバスラに送りこむ。
大兵力を以てバスラの制圧を狙うイラン軍と中国軍空挺師団。それを阻止するべくクウェートから急ぎ後退してきたイラク軍の精鋭、共和国防衛隊。そして南アフリカ空挺コマンドと日本の機動対戦車中隊。
バスラを舞台に激烈な戦闘が繰り広げられたが、勝利を収めたのはイラン・中国軍と機動対戦車中隊であった。イラン軍は装備に勝るイラク軍との戦いで多大な犠牲を払いながらも、人海戦術でバスラ前面に展開したイラク軍を圧倒し、バスラを制圧することに成功したのである。いち早く敵に勝る動員体制を敷き、戦力を一挙に投入したイラン側の戦争計画が功を奏した形となった。
バスラ陥落の報はイラク政府に衝撃を与えた。バスラを保持され続ければイラク側の戦争遂行能力の低下は避けられず、アラブ連合軍との戦いどころか、イラン軍を国内から撃退することすら難しくなってくる。焦ったイラク政府はOAU側に更なる支援を求め、支援がない場合はAPC・アラブ連合側と和平を結んでOAU軍に対して攻撃を加えると通告した。
この通告をOAU側はまともに受け止めなかった。ことこの段階に及んでイラン側がそう簡単にイラクとの停戦に応じるはずもなく、それはAPC・アラブ連合軍側とて同じだったからである。
だが、OAUにとってもイランの参戦とバスラの陥落は大きな誤算であった。南アフリカ政府としてはイラクが湾岸諸国へ圧力を掛けることでその兵力を分散させ、APC寄りのイランの参戦を抑える防波堤となることを期待していたが、イラク側が独断専行してクウェートを併合した末にイランの参戦を招き、あまつさえ南部の主要都市を抑えられて劣勢となるという本末転倒な結果となってしまったのである。
南アフリカ政府としては一刻も早くリヤドに軍を向けたいところであったが、このままイラクの窮状を放置すればその空軍力の支援を得られないばかりか、中東侵攻作戦そのものが頓挫する可能性もあり、戦略を転換せざるを得なかった。こうしてリヤド目指して進撃していたOAU軍は進撃を停止し、一部の部隊をイラク軍救援の為にイラク領内に向かわせることとなった。
これによってリヤドの危機は救われ、APC・アラブ連合軍は息を吹き返すこととなったが、喜んでばかりもいられなかった。OAU軍部隊がイラク領内に向かったことで、今度はイラン側に攻撃の矛先が向けられることになったからである。
この時、イラク領内にはイラン軍が続々と進出し、シャトル・アラブ川西岸のアル・ファオ、ウム・カスルとイラク南部沿岸の都市を次々に制圧していた。更に、イラクとの国境沿いに位置するバクダッド正面のケルマンシャー方面からも部隊を侵攻させて東と南の二方向からバグダッドを窺う構えを見せていた。
これに対し、ようやく初戦のショックから抜け出しつつあったイラク軍は機甲部隊を再編してイラン軍への反撃を準備していた。元々イラク側とイラン側では機甲戦力に大きな差があり、特に戦車戦力はその質・数共に開きが大きかった。この強みを活かして数に勝るイラン軍を押し返し、バスラを奪還しようというのがイラク側の目論見であった。OAU軍もこの動きを支援する為、先に向かわせた部隊とは別に第44落下傘旅団をイラク南部に急派すると共に、バスラから後退していた空挺コマンドにもイラク軍の支援を命じる。
かくしてイラク軍は古代都市ウルにほど近いナシリーヤ方面から反撃を開始する。イラク軍は優位な機甲戦力を前面に押し立ててイラン軍の先頭部隊に襲い掛かり、それをOAU軍が側面から支援した。イラク軍の攻勢は攻撃ヘリや空挺コマンドの第二世代AWGSによる近接航空支援、更には空軍機による支援まで受けた非常に厚みのあるもので、これにはさしものイラン軍もたまらず進撃を停止せざるを得なくなる。
チグリス川にほど近い戦線右翼で戦っていた第504機動対戦車中隊も共和国防衛隊の精鋭を相手に奮戦していたが、戦線左翼のOAU軍機甲部隊がイラン軍の前線を突破して側面を突く動きを見せたことから救援に向かわざるを得なくなる。この間にも右翼のイラク軍は戦線を大きく押し上げてイラン軍を大きく後退させることに成功し、イラン軍をバスラまで押し戻した。
しかし、この戦いでイラク側も大きな被害を受けることとなった。確かにイラン側の戦車はイラク軍のT‐90に比べると性能では見劣りしたが、過去のイラン・イラク戦争と違ってイラン軍の対戦車能力は格段に強化されており、歩兵用の対戦車ミサイルやRPGは言うに及ばず、90式Ⅱ型戦闘兵車やラーナ、13式も全てATMを装備していた上、多少旧式のAH‐1攻撃ヘリによる航空支援体制も十分整っていたのである。
勝敗だけを見ればイラン軍の進撃を食い止めたイラク・OAU軍側の勝利とも言えたが、この過程でイラク側は機甲戦力を消耗し、バスラ奪還を前にこれ以上の追撃は難しくなっていた。対するイラン側もイラク側の猛攻で大きな損害を出しており、人海戦術の限界を突き付けられた格好となっていた。こうしてイラン側、イラク側両軍共に決め手を欠いた状態で手詰まりとなり、イラク南部戦線は膠着状態となったのである。
しかし、戦況は依然としてバスラを確保しているイラン・APC側が優勢だった。イラン側としては無理にバグダッドを狙う必要はなく、バスラを抑え続ければいずれイラクは経済的に行き詰まり、現体制が崩壊するか、講和を申し出てくるだろうと見ていた。
イラク側は石油の輸送ルートを抑えられたことによる経済的逼迫もさることながら、国内に存在する反政府勢力の動きにも悩まされていた。彼らはイランや中国の支援を受けて各地で武装蜂起し、イラク軍の補給ルートを襲撃してその活動を阻害していたのである。こうした武装勢力への対処もあってイラク軍は兵力を分散されることとなり、ただでさえ数に優れるイラン軍に対して不利な戦いを強いられることとなった。
この間にも湾岸諸国の輸送機による大規模な支援を受けてAPC側の兵力補充は本格化し始めており、サウジアラビアのダーラン空港に日本外人部隊の第102機甲師団が到着したのを皮切りに、中国軍の1個装甲師団と東南アジア諸国合同部隊の1個機械化歩兵旅団、西部連邦の意を受けて域外協力として派兵されたオーストラリア軍の精鋭第1機甲連隊などが続々とサウジ入りしていた。
先の戦いで戦力を半減していた第503機動対戦車中隊も本国から補充の機体とパイロットを受け取って戦列に復帰した。補充された機体の中には12式の改良型である12式改数機も含まれており、APC軍の戦力は着々と強化されつつあったのである。
焦ったイラク政府は戦況を変えるべく、窮余の策に出る。イランの首都テヘランに向けて多数のスカッドミサイルを放つと同時に、空軍機を使ってペルシャ湾を航行するタンカーを無差別に攻撃してペルシャ湾の封鎖を試みたのである。イラン側も即座に応戦してミサイルをバグダッドに撃ち込んだことから、双方によるミサイルの応酬が繰り広げられ、両国の市民に被害が拡大。APCとOAU両者の思惑を超えて戦争の規模は拡大を続け、遂にホルムズ海峡が事実上封鎖される事態となったのである。
更に、イラク政府はミサイルの矛先を湾岸諸国にも向け、リヤドやアブダビに向けて数百発のミサイルを発射する。サウジは高度なミサイル防衛体制を整えていたものの、その網をすり抜けた数十発がリヤドに着弾して市民に大きな被害が出た。これは事前にOAU側がサウジの対空レーダー網を破壊していたこともさることながら、イラク側がスカッドミサイルの改良を重ねて性能を強化していたことも大きかった。
APC・アラブ連合軍側は過去のジュネーブ合意に違反する行為だとしてイラク側を強く非難したが、イラク政府は合意はあくまでもAPCとPEU間で結ばれたものであり、イラク政府はその拘束を受けないと宣言した上で、逆にイラン側の都市攻撃に沈黙を貫くAPC・アラブ側を非難した。
しかし、イラクによる一連の攻撃はアラブ側の士気を挫く上で大きな効果があった。特に首都へのミサイル攻撃で大きな被害を出したサウジでは国民の間にパニックが広がっており、ペルシャ湾の封鎖によって石油やその多くを海外からの輸入に頼る食糧や生活必需品の貿易にも影響が出始めたことで経済も逼迫し始めていた。それは他の湾岸諸国も同様で、これ以上戦闘が長引いて経済が停滞すれば各国共に国民生活そのものが破綻しかねない可能性もあったのである。
アラブ側の士気低下に危機感を抱いた中国政府は、第503及び第504機動対戦車中隊にイラク領深く潜行してのスカッド狩りを命じる。移動式のスカッドミサイル発射機を探し出して破壊し、アラブ側の戦線離脱を食い止める狙いであった。航空機からの偵察情報を頼りにスカッドミサイル発射機を探して砂漠を駆けるHIGH‐MACS部隊。彼らは多くのスカッドミサイルを破壊することに成功したが、これに気付いたイラク側も待ち伏せ作戦を実施して対抗した為、スカッド狩りの手は徐々に鈍り始める。
この間にもアラブ側の被害は拡大を続け、士気は低下する一方だった。こうして徐々にアラブ側に講和を模索する動きが見え始めたことで、OAU側は再び戦いの主導権を取り戻し始めた。イラクの暴走が結果的に中東諸国を追い詰め、OAUの中東支配を引き寄せたのである。
アラブ側が密かにOAU側と接触を持ち、停戦に向けた交渉を進めているとの情報を掴んだ中国政府はサウジ政府に掛け合って戦争継続を求めるが、アラブ側の停戦の意志は固く、拒否された。アラブ側は数か月に及ぶ戦闘で国内が疲弊しており、これ以上の戦闘継続は失うものの方が多いと考えていた。
アラブ側の外交団がOAU占領下のカイロに向けて出発し、OAU首脳陣が勝利を確信したその時、思いがけぬことが起こった。突如としてPEUがOAU加盟国であるリビアとの同盟締結を発表すると共に、中東情勢への介入を宣言したのである。
エル・アラメイン大会戦
2021年10月27日、エジプト西部エル・アラメイン。
OAU軍による中東侵攻から三か月、中東情勢の不安定化は世界経済に大きな影響を及ぼさずにはおかなかった。OAU軍によるスエズ運河と紅海の封鎖で石油価格が高騰し、エネルギー供給の不安定化から逼迫する国が相次いでいたのである。この影響はロシアの不安定化で天然ガスの供給を脅かされているヨーロッパ諸国にも及び、燃料費と物価の高騰は近づきつつある冬の寒さに対する市民の不安を広げ、深刻な社会不安を醸成しつつあった。シベリアの戦い以来、ロシア情勢の安定化の為に奔走していたPEUもこの状況を座視しているわけにはいかず、軍事介入に踏み切る決意を固めたのである。
また、OAUの中東侵攻は安全保障上の観点からも見過ごせない問題を含んでいた。スエズ運河が封鎖されて以降、ペルシャ湾を出た石油タンカーはインド洋からアフリカ大陸南端の喜望峰を回ってヨーロッパに向かうルートを使っていたが、このルートは常にアフリカ大陸の沿岸を進む為、いつOAUからの干渉や妨害を受けるか分からなかった。ましてOAUの盟主である南アフリカがアメリカに代わる覇権の樹立を目指していることは明らかな以上、その国土の目と鼻の先の喜望峰を周るルートにエネルギー供給を依存することは大きな危険が伴った。アフリカ大陸の北に位置するスエズ運河と南に位置する喜望峰という二つの戦略的要衝をOAUがその勢力圏に置くことは、PEUにとって大きな脅威となることは明らかであった。この為、PEUとしては何としても中東からOAUを排除し、地域の安定化を図る必要があったのである。
PEUは中東への派兵を決定すると同時に先の大戦においてパートナーであったリビアと再び同盟を結び、アフリカ大陸への橋頭保を確保した。リビアはOAUのメンバーであると同時に中東諸国の一員でもあり、歴史的な関係もあって心情的にはアラブ寄りであったからである(この為、今回の中東侵攻にも派兵はせず、その忠誠心を疑う南アフリカ政府も派兵を求めなかった)。
また、仇敵とは言え、同じOAU加盟国であるエジプトに軍事侵攻した南アフリカ政府のやり方には批判的で、エジプトの窮状を放置すればいつ自国が同じ運命を辿るか分からないという恐怖感もあり、PEUの介入を望んだのである。これは隣国のアルジェリアやチュニジアといったマグリブ諸国も同じであり、リビアに協調する動きを見せ始めていた。同じアフリカ諸国でもイスラム圏に属する北アフリカとサハラ以南のブラックアフリカ地域では文化的な溝が大きく、その関係には微妙な距離感があったのである。
こうしたOAU内部の対立にも助けられ、PEUは水面下で北アフリカ諸国の協力を取り付けることに成功し、リビア派遣軍の第一陣としてフランス外人部隊の第2外人落下傘連隊と第1外人騎兵連隊をリビアに派兵。更に、軽装の空挺部隊を支援する為にイギリス軍の第16空中強襲旅団航空連隊にも派遣命令が下された。
このPEUの行動に対し、OAU側は即座に反撃に出た。かねてからリビア政府の忠誠心に疑いを持っていた南アフリカ政府は、リビア政府の転覆を画策。リビア国内の反対派勢力と結託して首都南部で蜂起を起こさせる。更に、反政府勢力支援の為と称して空挺コマンドと第44落下傘旅団をリビアの首都トリポリに派遣し、政府庁舎の制圧を目論んだのである。
10月4日の未明、プレトリアのOAU軍総司令部からの指令を受けた両隊は、直ちにエジプトの空港からll-76輸送機に搭載されて出撃。OAU空軍の戦闘機の護衛を受けつつ、リビア領空に侵入した。
レーダーを避けるために超低空でリビア領空に侵入したll-76の編隊は、トリポリ東の砂漠地帯で積み荷を投下。第44落下傘旅団落下傘対戦車大隊のフォルシルム・パンターがLAPES(超低空パラシュート投下法)で降下し、着地と同時にトリポリ市内に突入した。虚を突かれたリビア軍守備隊は情報が錯綜する中で良く健闘するも、夜陰に紛れたOAU軍の巧妙な奇襲によって各所で撃破された。
一方、ボスファルクとフォルクスパンターSAVを装備する空挺コマンドはトリポリ南で降下し、市内の異変に気付いて出動態勢に入っていたフランス外人部隊第1外人騎兵連隊と第2外人空挺連隊の駐屯地を急襲した。突如の奇襲に駐屯地は大混乱に陥るが、精鋭のフランス外人部隊はすぐに態勢を立て直してSUPERAUTRUCHEやERC-90装甲車で反撃に出る。
この間にもOAU軍第44落下傘旅団のフォルシルムパンターは混乱するリビア軍守備隊を排除し、一度はトリポリ中心部を制圧する勢いを見せていた。が、大統領警護隊の予想外に激しい抵抗を受けて作戦に狂いが生じ、救援に駆け付けたイギリス軍第16空中強襲旅団のVW‐1による近接航空支援が始まったことで作戦は頓挫。イタリア半島から出撃したPEU空軍による攻撃も始まったことで形勢は逆転し、空挺コマンドと第44落下傘旅団は互いに援護しながらトリポリ市内から離脱し、南へと撤退していった。
リビアの政権転覆にこそ失敗したものの、このOAU軍の先制攻撃はフランス外人部隊の先遣隊に少なくない損害を与え、PEU側の軍事行動を遅らせる上では大きな効果があった。しかし、この攻撃によって中東への派兵に慎重な姿勢を示していたPEU各国の世論は沸騰し、却ってその戦意を高めるという皮肉な結果をもたらすこととなった。当初は中東地域の安定化を目的とした小規模な派兵に留める方針だった北アフリカ派遣軍の戦力は、時間の経過と共に日々増強されていったのである。
その主力はリビアやアルジェリアの宗主国であるイタリアとフランスで、雪辱に燃えるフランスは緊急展開部隊である第6軽機甲師団及び第11落下傘旅団、フランス外人部隊の第13准旅団を新たに派兵し、イタリアもアリエテ機甲旅団とガリバルディ機械化歩兵旅団などを送り込んだ。PEUの盟主であるドイツも第5機甲擲弾兵師団をリビアに上陸させる一方、シベリア戦で活躍した第26降下猟兵旅団降下対戦車猟兵大隊をギリシャのクレタ島に派遣し、臨戦態勢に入った。
更に、当初は派兵の予定のなかったトルコも急遽1個機甲旅団を派遣すると共に、イラク国境に部隊を集結させてイラク側に圧力を掛ける。また、ベネルスク諸国と南欧諸国も合同部隊を編成して派遣軍に加わった(北欧諸国と中東欧諸国の部隊は引き続きロシアの安定化作戦に従事した)。
OAUとの対決姿勢を強めるリビア軍も2個機甲旅団を提供した。リビア軍は規模こそ小さいものの、前大戦においてPEUから多少旧式化したレオパルド2戦車2000両の無償提供を受けると同時に多数のレオパルド3を購入していた為、兵器の性能だけで言えばOAU軍機甲部隊とも互角に渡り合えるだけの能力を持っていた。
これに加えて、前大戦で比較的被害の少なかったイギリスも新たに1個機甲旅団を派兵すると共に、空母機動部隊を地中海に派遣して洋上からPEU軍を支援した。こうしたイギリスの大規模な派兵の裏には、同盟を組むアメリカ北部連邦による内々の要請があった。西部連邦同様に内戦で兵力を動かせない北部連邦としては、イギリスを通してPEUを動かすことで中東地域の安定化を図る必要があったのである。アメリカの利益を代弁するという意味において、この時期の日本とイギリスの立場は非常に良く似ていた。
PEU側のこの行動を受けて、OAU軍主力部隊はサウジアラビアから撤退し、シナイ半島を通ってエジプトに後退した。APC・アラブ連合軍を打倒するまたとないチャンスであったが、このタイミングでPEU軍に背後を急襲されれば先のエジプト軍と同じ運命を辿る危険性があったのである。
OAU軍にとってのアキレス腱は航空戦力の弱さであった。域内には発展途上国が多いこともあって最新鋭の航空機を装備した部隊は少なく、盟主の南アフリカにしても本国防衛用の小規模な空軍しか保有していなかった為、制空権を得にくかったのである。
先の中東諸国との戦いでは敵がイスラエルとの航空戦で航空機を消耗していたこともあってさほど問題にはならなかったが、最新鋭の戦闘機を多数揃え、パイロットの練度も高いPEU軍相手では状況が違った。PEU軍は中東情勢の悪化に伴ってイタリア半島の航空戦力を増強しており、地の利も手伝って空軍力ではOAU側を圧倒していた。
OAU軍側も2S6MツングースカやZA-35*16、ルーイカットSAM*17、バリアントなどの対空兵器を十分に備えてはいたが、敵の空軍力が優位な状況では戦いの主導権を掴むことは不可能だったのである。
プレトリアのOAU軍総司令部はここに来て中東侵攻計画の放棄を決定し、エジプトでPEU・リビア連合軍の侵攻を阻止する方針に転換。主力部隊をエジプトに後退させ、防衛体制を固めた。
一方、PEU軍側は再度の奇襲に備えつつ、ヨーロッパからの戦力の結集を慎重に待ち続けた。かつてこの地でロンメルを破ったモントゴメリーが、敵を上回る十分な数の戦車が揃うのを待って反撃に出た戦訓に従ったのである。こうして十分な戦力が整った2021年10月25日、PEU・リビア連合軍はエジプトを解放するべくリビア国境からカイロに向けて進軍を開始した。
カイロに置かれたOAU中東派遣軍司令部は、機甲戦力の運用に長けたPEU・リビア連合軍との機甲戦は不利と判断。やはり第二次大戦においてドイツ軍の進撃を食い止めたイギリス軍の戦訓に倣い、アレクサンドリアの西100㎞にあるエル・アラメインに強固な防衛陣地を築いて敵の進撃を食い止める作戦に出る。エル・アラメイン南方には機甲部隊の運用に適さないカッタラ窪地がある為、PEU軍機甲部隊の機動力を封じることが出来ると考えられたのである。
OAU軍は急遽、オリックス武装ヘリやヴァルキリー自走ロケット弾発射機、クランプファルキー自走多連装ロケット砲*18 を使ってエル・アラメイン一帯に大量の対戦車地雷を散布し、広大な地雷原を構築。更に、工兵部隊のIMR‐X戦闘工兵車を始めとする工兵車両で長大な対戦車壕を掘り、エレファントとバリアント、2S6Mツングースカ等からなる強固な防衛陣地を設けて敵の突破を待ち受けた。これは重装甲・高火力を旨とするエレファントの性能を最大限に活かす上でも理に適った作戦であり、強力なキルゾーンに敵を引き込んで殲滅を図るというのが南アフリカ・OAU軍側の狙いであった。
空挺コマンドと第44落下傘旅団は敵の航空優勢下では空挺作戦を実施出来ないことから地上に配備され、落下傘対戦車大隊は重装型のスーパーパンター*19に乗り換えて戦闘に参加した。
そして2021年10月27日、砂漠に降る大雨の中で両軍の戦いが始まった。PEU・リビア連合軍は地雷原にドイツ軍機甲砲兵大隊のPhZ2000・155㎜自走榴弾砲による準備砲撃を加えた上で、地雷原啓開用の工兵装備を施した戦車やAWGSで敵陣に迫った。一方、OAU軍は塹壕に身を隠したレオパルド3やエレファント、G6ライノ155㎜自走榴弾砲、クランプファルキー自走多連装ロケット砲で進軍してくるPEU軍に砲撃を浴びせ、激戦が繰り広げられることとなった。
エル・アラメイン正面で両軍の主力部隊が激突している頃、南方のカッタラ窪地ではPEU・リビア連合軍の右翼に布陣していたフランス軍とイタリア軍の別動隊が進撃していた。PEU側は装甲車両の通行が困難とされるカッタラ窪地でもAWGSの不整地踏破性能を以てすれば突破出来ることを前大戦の経験から知っており、両軍に装備されたSUPERAUTRUCHEとリットリオ、ベリサリエリ*20の高い不整地踏破性能を活かしてカッタラ窪地を突破し、防備の手薄な南側からOAU軍左翼を奇襲しようとしたのである。
しかし、この攻撃はOAU軍側も予測しており、奇襲に備えて配置されていたエチオピア軍の少数のエレファントとリットリオが進軍して来るフランス・イタリア軍を足止めした。そこに空挺コマンドとスーパーパンターを装備した南アフリカ軍第44落下傘旅団落下傘対戦車大隊が応援に駆け付け、急斜面を駆け下りて狭隘な谷間を行くフランス軍とイタリア軍の戦列に襲い掛かった。実戦経験豊富なフランス軍もこの攻撃には溜まらず後退を始め、迂回作戦は失敗した。
この間にも戦線正面ではPEU・リビア連合軍の戦車部隊が地雷原を啓開しながらOAU軍陣地に肉薄していた。事前の準備砲撃と工兵用装備の効果もあって地雷で失われた車両は少数に留まっていたが、エル・アラメイン正面の敵防衛陣地の抵抗は予想以上に激しく、特にエレファントとG6ライノの砲撃で破壊される車両が続出していた。
カッタラ窪地における奇襲作戦が失敗したこともあり、このままではエル・アラメインで食い止められたドイツ軍の二の舞になるのは必定だった。突出したリビア軍の機甲旅団が集中砲火を受けて壊滅し、OAU軍が勝利を確信したその時、背後にドイツ軍第26降下猟兵旅団の降下対戦車猟兵大隊が空挺降下した。Il‐76輸送機から自由落下で続々と降下して来るヤークトパンター部隊。その中には実戦配備されたばかりの最新鋭機、ヤークトパンターⅢ*21の姿もあった。
PEU軍空挺部隊降下の報告を受けて、カッタラ窪地での戦闘に勝利した南アフリカ空挺コマンドも補給を受けて直ちに味方の救援に向かった。空挺コマンドには元ドイツ軍降下猟兵出身者が多かったこともあり、奇しくもこの戦いは新旧の降下猟兵同士の戦いとなった。栄光あるドイツ軍降下猟兵と、その血を分けた南アフリカ空軍空挺コマンド 。両者の戦いはしかし、最新鋭機を装備したドイツ軍降下猟兵に軍配が上がる。
空挺コマンドの装備するボスファルクはヤークトパンターとほぼ同程度の性能を誇っていたものの、その主力は未だ廉価版のフォルクスパンターSAVであり、その性能差は歴然としていた。そのボスファルクにしても、ヤークトパンターに比べて装甲で勝っていたが、機動性ではやや劣っており、旋回戦を主とする第二世代AWGS同士のドッグファイトでは一歩後れを取ることとなった。そこに現れた最新鋭機、ヤークトパンターⅢの機動力は異次元のものであり、さしものボスファルクもその機動力についていけず、撃破される機体が続出。それでも精鋭で鳴らす空挺コマンドは奮戦し、降下猟兵に少なくない損害を与えたものの、新旧ヤークトパンター隊の猛攻を受けて撃退されてしまう。
空挺コマンドを破ったヤークトパンター隊はその勢いのままにエレファントの防衛陣地に肉薄し、一つまた一つと防衛陣地を潰していった。予想もしない空からの突如の奇襲にエレファントは成す術なく撃破され、その降下猟兵の開けた穴から戦線正面のPEU軍機甲部隊が浸透し、OAU軍の防衛線は遂に破られたのである。
OAU軍司令部は戦線の穴を埋める為に多少余裕の出来ていたカッタラ窪地から南アフリカ・エチオピア軍の部隊を抽出して投入するも、勢いに乗った敵の戦車部隊を止めることが出来ず、逆に被害が拡大。その後方から機動力に優れたストゥームティーガーやストゥームパンターが続々とOAU軍陣地に乗り込み、敵を撃破していった。
自軍が包囲殲滅されるのを恐れたOAU軍前線司令部は全部隊に撤退を命じるが、時既に遅かった。敵軍の猛攻を受けて東へと撤退を始めたOAU軍の前に、イギリス軍の第16空中強襲旅団航空連隊のVW‐1が続々と降下したのである。
包囲の輪から抜け出せた部隊は僅かだった。海岸線近くのOAU軍部隊はほとんどが包囲殲滅され、カッタラ窪地方面の部隊も逆襲に燃えるフランス外人部隊の執拗な追撃を受けて甚大な被害を出して撤退した。
しかし、最も悲惨だったのは戦線中央の防衛陣地を死守していたエレファント部隊だった。エレファントは重装甲・高火力を旨とする重装AWGSであったが、重装だけに機動力が低く、一度補足されると逃げ切るのは不可能だった。逃げ遅れた防衛陣地のエレファント部隊をPEU・リビア連合軍の戦車とAWGSが包囲し、砲弾の雨を浴びせた。
さしものエレファントも近距離から無数の戦車砲弾を受けて装甲を貫徹され、車体に深刻なダメージを負って次々に撃破されていった。それでも南アフリカ軍のエレファント部隊は意地を見せ、不用意に肉薄して来た敵戦車を踏み潰し、140㎜滑腔砲によって尚も追撃してくる戦車やAWGSを撃破したが、反撃もそこまでだった。敗走する敵を蹴散らして戻って来たドイツ軍のヤークトパンターとイギリス軍のVW‐1によるトップアタックを受けて碌な反撃も出来ないまま一機また一機と撃破され、最後の一機がATMの直撃を受けて空中に放った砲撃を最後の咆哮として、南アフリカ・OAU軍の象徴たるエレファント部隊は全滅した。雨の降り止んだ戦場には、破壊された幾多のエレファントの残骸が巨大な墓標のように横たわっていた。
こうしてエル・アラメインの戦いはPEU軍の勝利に終わった。OAU軍の残存部隊は東へと敗走し、これを追ってPEU・リビア連合軍もカイロへと向かった。エル・アラメインからカイロまでの間に、彼等の進撃を阻むものはもう何もなかった。
決闘
2021年10月、エジプト南部、アスワン・ハイ・ダム。
エル・アラメインで激戦が繰り広げられている頃、シナイ半島ではAPC・アラブ連合軍が反攻に出てスエズ運河に達していた。この時、APC・アラブ連合軍はスエズ運河を一刻も早く渡河してPEU軍より先にカイロに到達しようと考えていたが、OAU軍守備隊の頑強な抵抗に遭って阻まれていた。
OAU軍のエレファントやバリアントは運河を塹壕代わりに利用して激しい防衛戦を展開し、APC・アラブ連合軍につけ入る隙を与えなかった。皮肉にも、前大戦においてAPC・エジプト連合軍がPEU・リビア軍に対して採ったのと同じ戦術がAPC・アラブ連合軍を苦しめることとなったのである。
この戦法は車高の高さをカバー出来ることから特に二脚型AWGSに有効な作戦であったが、四脚型のエレファントでもそれは同様だった。特に、スエズ運河を塹壕代わりにしたエレファントの砲撃は脅威であり、稜線の向こうから前触れもなく飛んでくる140㎜滑腔砲の威力はAPC・アラブ連合軍の兵士を恐れさせた。また、その後方陣地には南アフリカ軍砲兵部隊のG6ライノが配置されており、運河を渡河しようとするAPC・アラブ連合軍に猛砲撃を加えてきた。
これに対し、APC・アラブ連合軍はUAE軍工兵部隊のIMR-X歩行戦闘工兵車を投入して塹壕を掘り進め、自軍の9式改やバリアントといったAWGSを運河に近づけていく。しかし、敵の砲火は予想以上に激しく、塹壕から出て突撃しようとした13式や9式改はOAU軍のエレファントやレオパルド3の140㎜滑腔砲に次々に狙い撃ちされた。
ここに来て士気の上がっていたサウジ軍が一計を案じる。これまで消耗を恐れて後方で待機していたヤークトパンター部隊を実戦投入し、運河を飛び越えて敵の戦線をこじ開けようとしたのだ。同隊はエレファントの砲撃をかわしながら運河に接近し、三次元機動で空中からエレファントを排除しようとしたが、運河に隠れていたバリアントと2S6Mツングースカの対空砲火を浴びて撃墜される機体が続出。中国軍とアラブ連合軍による猛攻も跳ね返され、進撃は完全にストップした。
エル・アラメインでは地雷原と地形がそれほど有効に機能しなかった為に敗北を喫したが、スエズ運河という巨大な塹壕を持つシナイ半島ではOAU軍の戦術は見事に威力を発揮し、強力なキルゾーンを形成していたのである。
リヤドに置かれていたAPC中東派遣軍司令部は焦っていた。このまま運河で足止めされ続ければPEU・リビア連合軍のカイロ入城を許してしまうこととなり、それは戦後の戦略的優位を失うことに繋がりかねなかった。中東地域における存在感を高めたいAPCとしては、PEUに先んじてカイロに到達することでエジプトを解放したという実績を作りたかったのである。
こうした状況を打開する為、APC中東派遣軍司令部は敵を挟撃する作戦を立案。第503機動対戦車中隊にエジプト本土に空挺降下し、スエズ運河西岸からOAU軍の背後を突くよう命じる。前大戦におけるPEU・ロシア軍がシナイ半島に第106親衛空挺師団を降下させ、APC軍の背後を突こうとした作戦を模倣したのである。
かくしてエジプト本土側のスエズ運河西岸に降下した同中隊は、直ちにローラーダッシュで運河のOAU軍陣地に肉薄したが、この攻撃はある程度予測され得るものであり、待ち受けていたサティロスとビットヴァイパー*22の散兵線に突っ込むこととなった。同中隊は敵の激しい抵抗に遭いながらもこれを排除して運河に到達し、これに呼応した東岸側からの友軍による攻勢もあって敵砲兵部隊のG6自走榴弾砲やエレファントを破壊することに成功する。防衛線が破られたことを知ったOAU軍守備隊は、運河沿いにスエズ港へと撤退した。
こうしてAPC・アラブ連合軍はスエズ運河の渡河に成功したが、OAU軍守備隊の予想外の抵抗によって貴重な時間を失うこととなった。同軍がスエズ運河で足止めを受けている間にも、エル・アラメインで勝利したPEU・リビア軍はOAU軍を猛追してカイロへ到達しており、北部の港湾都市アレクサンドリアを始めエジプト西部の大半を確保していたのである。
カイロとアレクサンドリアを保持する PEU・リビア連合軍に対し、APC・アラブ連合軍はスエズ運河とシナイ半島を制圧して両者の睨み合いとなった。奇しくも、前大戦の北アフリカにおける戦いと同じ状況が生まれたのである。一発でも銃弾が発射されれば両軍の激突もあり得た危険な状況であったが、同じイスラム圏に属するリビア側とサウジ側の交渉によって寸でのところで戦闘は回避された。交渉の結果、両者はOAU軍追討の為に共闘することで一致し、ナイル川の東岸をAPC・アラブ連合軍が、西岸をPEU・リビア連合軍が掃討しつつ南下することで合意した。
この時、エジプト各地には未だOAU軍部隊が残存しており、戦闘を継続していた。特に、OAU軍の主力である南アフリカ軍は士気・練度共に高く、敗色濃厚となった10月の時点でも各地で激しい抵抗を見せ、APC・アラブ連合軍側に少なくない損害を与えていた。
それでもAPC・PEU両軍による掃討作戦が始まると、戦況を見極めて徐々に撤退する部隊や投降する部隊も現れ始めた。スエズ運河から撤退したOAU軍部隊もイスマイリア軍港に籠城して尚も抵抗を続けていたが、エル・アラメインで敗北した主力部隊がスーダンに向けて撤退を始めた為に取り残され、全ての弾薬が尽きた10月2日に包囲していたAPC・アラブ連合軍に投降して武装解除された。
しかし、全ての部隊が降伏したわけではなかった。戦争初期に占領された南部のアスワン・ハイ・ダムには南アフリカ軍を中心とするOAU軍の一部部隊が立て籠り、OAU軍総司令部の撤退命令を無視して籠城を続けていたのである。その中にはエル・アラメインから撤退して来ていた南アフリカ空挺コマンドの姿もあった。PEU軍は大部隊でダムを包囲したが、ダム内部には水力発電施設もあったことから攻撃は控えられていた。
この時、戦死した前任の中隊長に代わって臨時に空挺コマンドの指揮を執っていたイーベン・デ・クラーク中尉*23は、包囲部隊に対して日本のHIGH‐MACSとの決闘を要求し、受け入れられない場合は仕掛けた爆薬を爆発させてダムを破壊すると通告して来た(実際にはブラフであり、仕掛けられた爆薬は一部を除き全てダミーであった)。ダムの損傷とそれによる電力不足が市民生活に与える影響を考慮して包囲側はこの要求を受け入れ、カイロで補給を受けていた第504機動対戦車中隊の12式改一機とパイロット一名が直ちにアスワン上空に空輸された。
数時間後、地平線の向こうに昇った朝陽の中から日本国籍を付けたC‐17輸送機が姿を現した。格納庫内で全ての調整・補給作業を終えていた12式改はアスワン上空に達するや直ちに降下し、アスワン・ハイ・ダムの突堤部に降り立つ。待ち受けていたのは白く塗装されたボスファルクⅡ*24で、クラーク中尉専用のチューンが施された特別仕様の機体であった。こうして籠城側と包囲側の兵士達が見守る中、両軍のエースパイロット同士による決闘が始まったのである。
この決闘に関して公式の記録は一切残されていない。しかし、非公式に伝えられている数々の証言によれば、勝利したのは日本の12式改とそのパイロットであったという。十数分に及んだ両者の決闘は、空中に舞い上がったボスファルクの90㎜低圧砲が12式の左腕と左滑空翼を吹き飛ばし、12式改の放った120㎜低反動滑腔砲の砲弾がボスファルクの右脚を吹き飛ばしたことで終わった。空中で態勢を崩したボスファルクはそのまま突堤から落下し、ダムの底へと消えていった。その機体は後々まで回収されることはなく、クラーク中尉も生死不明扱いとなった。
この戦いの結果を受けてダムに籠城していた部隊も全ての装備を放棄して包囲側に投降し、中東地域における全ての戦闘が終結することとなった。
この間、エジプト南部で待機していたPEU・APC両軍はスーダン方面からの敵の反撃に備えて警戒態勢を維持していたが、OAU軍による反攻はついぞなかった。エル・アラメインとスエズ運河の戦いで多くの重装備を失っていたこともあり、OAU軍には即座に大規模な反攻に出るだけの力は残されていなかったのである。
元々アフリカ諸国の軍隊はヨーロッパやアジアの国々に比べると規模も小さく脆弱であり、装備の近代化も遅れていた為、一度崩れ始めると崩壊は早かった。これまでは南アフリカやアルジェリア、ナイジェリアといった例外的に強力な軍を持つ一部の国が各国を統率してきたものの、イスラム圏に属する北アフリカとサハラ以南の諸国の文化的溝は深く、その結束は思いの外弱かった。盟主である南アフリカが過去にアパルトヘイトを実施していたことも、各国の連帯を阻害する要因の一つであった。中東侵攻作戦がスムーズに運んでいる間はこうした問題も隠されていたが、今回の敗戦でそれが一気に表面化し、南アフリカ政府は急速に求心力を失うこととなったのである。
しかし、それ以上に深刻だったのはアフリカ大陸を覆う飢餓であった。前世紀以来、アフリカ大陸北部の砂漠化は急激なペースで進行し、スーダンやチャド、ニジェールまでが砂漠化の危機に瀕していた。こうした国々では農耕地の減少に伴って人々が流出を始め、これが複雑な民族問題に火を着ける形で民族紛争が多発していた。
そこに追い討ちを掛けたのが近年連続した大旱魃であった。特にエチオピアやソマリアといった東アフリカでは大量の餓死者が続出し、元々政権基盤が弱いこともあって破綻する国家が相次いでいた。こうした国々では武装した民兵勢力が跋扈し、OAU軍による度々の介入も空しく治安は悪化の一途を辿り、それが更なる飢餓を呼び込むという悪循環を作り上げていた。深刻な飢餓がアフリカ大陸全土を覆い、慢性的な地域紛争を引き起こしていたのである。
南アフリカ・OAUによる中東侵攻はそれを解決する為の手段であったのだが、その計画が破綻した今、OAU首脳陣にはアフリカ大陸に山積する問題が大きく伸し掛かっていた。結局のところ、この地上に楽園などなかったのである。
全ての戦闘が終結してから2週間後の2021年11月12日、 APC、PEU、OAUの首脳陣がカイロで会談し、三者は正式に停戦に合意した。と同時に、前大戦とその後の戦火を招いた反省に立ち、緊張緩和と国連主導の国際協調への道が確認された。
その道のりには尚多くの問題が山積しつつも、三大勢力の首脳が平和に向けた努力を宣言した点では大きな一歩であった。この歴史的な会談の成功により、世界情勢が緊張緩和への道を辿り始めたかに見えたその矢先だった。
カイロ宣言から一か月後の2021年12月12日、アメリカ北部連邦が西部連邦の首都サクラメントを制圧し、一年半に渡るアメリカ内戦が終結。アメリカ合衆国の復活が宣言されたのである。
脚注
*1:ガングリフォン世界における2015年から2020年の期間においてはメルカバMk3以降のモデルが確認されていない為、「ガングリフォンⅡ」に登場したメルカバMk2戦車が未だに主力であるという設定とした。日本外人部隊が10式戦車ではなく、90式改を使用している設定なのも同じ理由による。
*2:アメリカから供与されたM15ランドクラブにイスラエル独自の改良を加えた機体。砂漠での運用を想定して防塵フィルターなどが各部に追加されている他、歩兵のRPG攻撃を想定して車体の周囲に柵状装甲と増加装甲を追加。更にラファエル社製のAPS(アクティブ防護システム)を標準装備するなど、徹底した防御力の強化が図られている。
*3:イスラエルが開発した6脚型AWGS。同じ6脚型のリットリオが不整地踏破性を追求した軽量型であるのとは対照的に、装甲防御力と射撃時の安定性を追求した重装型となっている。6脚型の特性である射撃時の安定性の高さから行進間射撃が可能であり、高性能なFCSも相まって高い命中率を誇る。武装は120㎜低反動滑腔砲と6脚型にしては控えめだが、リットリオのそれよりも砲身長が長く、初速を高めた強力なタイプである。
*4:バリアントの改良型。基本構造は通常型のバリアントと変わらないが、装甲の材質の見直しと増加装甲によって防御力が向上している。これによる重量増加に対処する為、エンジンもより高出力のものに変更されている。
*5:2018年7月にOAU軍がエジプトに侵攻し、スエズ運河を封鎖した紛争。一か月後の8月15日に日米主体の国連軍が介入し、イスマイリア軍港を守備していたOAU軍を排除して運河を奪還した。
*6:南アフリカが1990年代に開発した戦車で、名称のTTDは「Tank Technology Demonstrator」の略。現実には数輛の試作車のみが作られた技術実証車だが、「ガングリフォンⅡ」ではリビア軍の車両として登場している。この為、本作では南アフリカ軍のMBT(主力戦車)として制式採用され、OAU軍の共通戦車構想で勝利を手にした第三世代戦車として設定している。
*7:イタリアが戦後に開発した二脚型AWGS。背部に設けられたガスタービンエンジンによって短時間ながらもジャンプが可能で、重量型特有の機動力不足をある程度解消している。三次元機動と言えるほどの代物ではないが、第一世代AWGSと第二世代AWGSの中間に位置するユニークな機体である。車高の高さからトップヘビー気味で、武装は反動の少ないKEMとグレネードのみとなっているが、厚い装甲から来る防御力の高さが強み。
*8:南アフリカが開発した戦闘ヘリで、フランス製の汎用ヘリ・SA330ピューマを南アフリカがライセンス生産したオリックスの駆動系を流用して生み出された。現実の世界では少数が南アフリカ空軍に採用されたに止まったが、本作ではOAU軍の共通装備計画の一環として行われたトライアルで勝利し、OAU加盟国で広く採用されている設定とした。
*10:南アフリカが戦後に開発した第二世代型AWGS。ヤークトパンターを参考に開発された為、機体構成も良く似ている。オリジナルと比べて装甲防御力が向上している反面、それによる重量増加と出力の低い国産エンジンを使用していることから機動力はやや低い。武装は右腕に90㎜低圧砲、左腕に30mmガトリング砲のスタイルが基本だが、パターンは自由に選択可能。ヤークトパンター同様、スタブウイングにロケットポッドやATMを装備出来る。
*11:パンターの空挺部隊バージョン。重量軽減の為、装甲や武装が僅かに減装されているが、その分機動性に優れる。南アフリカ軍では更に独自の改良を加えて使用している。
*12:ガングリフォンブレイズが発売された2000年の時点では9.11テロもイラク戦争も起こっていない為、湾岸戦争時の同国に近い体制が温存されている設定とした。
*13:旧ソ連の開発したBMP‐2装甲車をノリンコ(中国北方工業公司)がコピーした車両。水上での浮力を確保する為、全長を約50㎝延長している他、装甲防御力も若干強化されている。乗車定員は11名と、オリジナルより1名多くなっている。
*14:ブラジルがアマゾンの防衛用に開発した水陸両用型AWGS。水上浮航能力を持ち、脚部による歩行と併用することで通常の車両では通行困難なアマゾンの複雑な地形でも難なく突破出来る。軽量化の為、装甲はアルミ合金製、武装は30㎜チェーンガンのみと比較的軽装だが、オプションとしてATMも搭載可能である。
*15:イランが開発した戦車。登場以来、詳細な情報が公開されていない謎の多い戦車だが、M60やチーフテンといった西側戦車の特徴と、T‐72などの東側戦車の特徴をそれぞれ取り入れていると考えられている。主砲は125㎜滑腔砲。
*16:ルーイカットの車体にレーダー付きの連装35㎜砲を搭載した対空型。現実には数輛が試作されたのみに止まった車両だが、「ガングリフォンⅡ」ではリビア軍の車両として登場している。この為、本稿では制式化されて量産され、OAU軍の対空装備として一般的な存在であると設定した。
*17:ZA-35と同じルーイカットの対空型。ルーイカットの車体にウムコント個艦防空ミサイルを転用した地対空ミサイルを装備している。ZA-35と同じく試作で終わった車両だが、こちらも一般的に普及した設定とした。
*18:南アフリカ・アームスコー社が戦後に開発した多連装ロケット砲システム。G6ライノ等と似た装輪型の車体に各種ロケット弾や対戦車地雷を発射出来るロケット弾発射機を備えた南アフリカ版MLRSだが、コストが低い分、性能もそれなりに抑えられている。
*19:ドイツが開発した二脚型AWGSストゥームパンターにアームスコー社製の改修キットを装着した南アフリカ仕様の特殊ヴァージョン。装甲防御力が僅かに向上している他、電装品等も近代化されている。
*20:イタリアが戦後に開発した四脚型AWGS。当初から輸出を前提に開発された為、リットリオに比べてシンプルな構造を持っている。脚部にコンバットタイヤを標準装備しており、機動性も高い。武装は低反動120㎜滑腔砲と小型KEM。
*21:ヤークトパンターの後継機。優秀な基本構造はそのままに各部をフラッシュアップし、軽量化と細部の形状変更、空力特性の見直しなどで総合性能を高めている。その基本コンセプトは日本の16式と共通するものがあり、FCSの強化で多彩な武装を運用出来るようになっている点も似ている。旧型との最大の違いはその空中機動性で、一連の改良と新型エンジンの搭載でHIGH‐MACS以上と言われた機動性に更に磨きが掛かっている。
*22:イスラエルが開発した小型の無人AWGS。炎熱の砂漠でも壊れないAIの開発をアメリカに依頼して完成した。砂の中に潜行する機能を持っており、敵の攻撃を受けると自爆する。武装は機銃のみとなっている。
*23:南アフリカ国防空軍特殊コマンド空挺連隊所属のパイロットで、階級は中尉(当時)。南アフリカ国防軍に入る前の経歴は一切不明であり、名前も偽名の可能性が高いが、ドイツ人であったとされる。
*24:ボスファルクの改良型。不満点の残ったエンジンをより高性能なものに換装し、機動性の強化を図っている。