ガングリフォン・ムック(仮)

名作ゲーム、ガングリフォンシリーズについて考察するブログです。他のゲームも時々語ります。更新不定期。

SENSE of GUNGRIFFON

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ガングリフォンの面白さって結局何なんだろう?」ってなことを最近よく考える。初代が発売されてからすでに24年、ブレイズが発売されてから数えてもそろそろ20年が経とうとしているが、このすでに新作が発売されなくなってから久しいタイトルが今尚多くの人の心を掴み続け、今でも遊んでしまうのはなぜなのか?もっと言って、ガングリの面白さの根底にあるものとは何なのか?

 

 

 

 

 

 

「三つの快感」

「ガングリの面白さとは何なのか?」

 

このざっくりとした疑問への答えとして真っ先に思いつくのは、やはり初代『ガングリフォン』のCMで使われた「走る快感!撃つ快感!飛ぶ快感!」のキャッチコピーだろうか。 残念ながら筆者はこのCMをリアルタイムで観たことはないのだが、この三つの言葉は確かに初代ガングリの面白さの一端を言い表していると同時に、3D空間を舞台にしたゲーム、もっと言ってFPSの面白さの本質を的確に物語っている言葉でもあるのではないかと思う。

 

筆者は特段のゲームマニアというわけではないので、当時のゲームのトレンドや流行にそれほど精通しているわけではないが、(特に家庭用ゲームの分野において)3D空間を自由自在に走り回るゲームが当時はまだ珍しいジャンルであったということは、その時代に子供時代を過ごした自身の実体験として感じるところである。

 

恐らく、筆者が初めてプレイした3Dシューティングと言えば1995年にプレイステーション用ソフトとして発売された『機動戦士ガンダム*1ではなかったかと思う。この作品はプレイヤーがガンダムに乗り込んで一年戦争の戦闘を体験するFPS視点のシューティングゲームで、この後一年以内に発売されることになる初代『ガングリフォン』と同じジャンルのゲームであった。

 

新しもの好きの父親がPS本体と一緒に買ってきたそのゲーム体験は、当時まだスーファミしかやったことのなかった子供には全く異次元のものであり、ゲーム中に度々挟まれる迫力のあるムービーにはとても驚かされたものだった。当時のコンシューマーゲームはまだカセット式が主流で、容量の関係などからムービーが流れる作品などある筈もなく、せいぜいストップアニメーションでストーリーが再現される程度のものだったのだから、その衝撃は計り知れなかった。 

 

当時はまだコックピット視点のゲームと言えば『がんばれゴエモン2 奇天烈将軍マッギネス』のゴエモンインパクト戦くらいしかやったことのなかった筆者だが、その時の経験が活きたのか、慣れないFPS視点にもすぐ慣れた。「要はゴエモンインパクトだろ?」と。*2

 

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がんばれゴエモン2 奇天烈将軍マッギネス』に登場する巨大ロボット・ゴエモンインパクトの操作パート。シリーズの中でも取り分けて楽しい良作で、ロボットの操縦パートだけでも横スクロールの操作パートとコックピット視点の2パートに分かれている上に、二人プレイ時には協力して操作することも可能など、今考えると贅沢な作りだった。ちなみに、プレイヤーがゴエモンインパクトを動かせるのは横スクロールパート時だけで、上図のようなコックピット視点時は攻撃やガードのみ可能だった。

 

そのゲーム内容は至ってオーソドックスかつシンプルな3Dシューティングで、攻撃は敵をロックオンして撃つだけだが、武器を切り替え、時にはビームサーベルで近接攻撃も行うことも出来る。武器種はビームライフルビームサーベル、バルカン、バズーカの4つほどで、シールドによる防御アクションもあった記憶がある。

 

見慣れたザクやドムとの地上戦、グラブロやゴッグとの水中戦、ア・バオア・クーの迷路でのシャアの駆るジオングとの最終戦。レーダーを観て自機と敵機の位置を確認しつつ、機体を旋回させ、前進後進を行う。フレームや計器類のせいで視界が狭かったり、セーブ機能に対応していないのでオールクリアするには2、3時間ぶっ続けでプレイする必要があったり、まだまだこなれていない部分も多かったが、当時の3Dロボットシューティングとしては一通りのことは出来たゲームであり、何よりも確実に「新しい体験をした」と思わせてくれるような作品ではあった。

 

しかし、そのほぼ一年後に『ガングリフォン』が発売され、これまた新しい物好きの父親が買ってきたセガサターンでプレイした時には、その評価はガラリと変わってしまうことになる。

 

ガンダム』のアニメーションを遥かに越す精細なオープニングムービー。自由自在に戦場を走り回れる疾走感。巧みに練り込まれた敵の増援タイミング。味方のヘリによる補給という概念の提示。発売されて間もないセガサターンの性能を「100%使い切った」とまで言われたその完成度の高さに、幼い筆者は愕然とした。

 

「あれは何だったんだ・・・・・・」

 

思わずそんな言葉が口をついて出た、などということは多分なかったが、それに限りなく近い気持ちになったのは確かだ。

 

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1995年に発売された『機動戦士ガンダム』。ガンダムゲーとしては初めてに近いコックピット視点のリアルな3Dシューティングゲームということで、当時はかなり話題になった。

 

その昔、アンソニーセガ―ルという二匹の猿が出ていた某CMもあったが、*3その逆バージョンですっかり『ガンダム』を放っぽり出して『ガングリフォン』ばかりやることになった。子供は正直である。ガングリが家に来てから数日と経たない内に自分の中における『ガンダム』の地位はどんどん低下していき、遂にはプレイすることもなくなってしまった。

 

機動戦士ガンダム』と『ガングリフォン』、さして変わらぬ時期に発売されたこの二つのソフトの、一体どこがそんなに違ったのだろう?

 

まず決定的な違いとして、『ガングリフォン』は『ガンダム』よりも「機体を動かす楽しさ」が段違いだったことが挙げられる。 

 

ガンダム』の移動は歩行が基本で、素早く移動する際も歩行から徐々にスピードを上げていって走り状態に移行し、減速する場合はその逆に走り状態か徐々にスピードを落としていくという仕組みになっていた。これはこれで全高20mを超すガンダムの重量感と原作の雰囲気をよく再現した挙動だったとは思うのだが、その視界の狭さや挙動の重さなどから爽快感は余りなく、「動かしていて楽しかったか?」と言われるとやや疑問の残るところである。

 

これに比べると、『ガングリフォン』の挙動は遥かに軽かった。周知の通り、その移動方法はボタンを押した回数によって歩行とローラーダッシュの二段階の移動法を使い分けるというもので、前進・後進を使い分ける車両のような分かり易くシンプルな操作系統と極めて反応の良い挙動、『ガンダム』のコックピット視点とは比べ物にならない程の視界の広さが相まって、動かしていてストレスを感じる場面が全くなかった。

 

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少し小さいが、1995年版の『MOBIL SUIT GUNDAM』のコックピット視点。恐らくコア・ファイターの操縦席の設定なのだろう、キャノピーを支えるフレームなどまで描写されているためにかなり視界が制限されているのが分かると思う。また、この設定だとコア・ファイターの先端が腹から突き出していることになってしまい、設定的にも色々矛盾がある。

 

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初代ガングリフォンの視点。恐らくモニター画面という設定なのだろうが、上記の『ガンダム』の視点と比べるとかなり見易い。

 

正直なところ、この差は圧倒的であり、まだ幼い子供にすら見抜かれてしまう程に歴然としていた。『ガンダム』をプレイしている時には何か他人の身体を借りて操作しているような感覚がなくもなかったが、ガングリになると自分の手足のように操ることが出来た。この違いは非常に大きいものだったと思う。

 

ガングリフォン・コンプリートファイルのインタビューを読むとその全てのボタンを使う操作系統には社内・社外を問わず相当な反発もあったようだが、当時はまだ子供だった筆者でもすぐに理解してプレイ出来たのだから、操作性が悪いということはなかったはずだ。あの悪名高いブレイズですら操作性の不満を口にするユーザーが少ないことを考えれば、むしろガングリの操作性は遥かにユーザーフレンドリーである。

 

この辺りはディレクターの宮路武氏自身が取り分けて強く意識していた部分なのだろう。以前の記事でも触れた通り、宮路氏は特に操作系に強いこだわりを持っていて、スタッフとの会話の中でも「気持ちよくないとダメだ」という言葉を残しているほどだ。この宮路氏の考えが「走る快感!」という言葉に体現され、ゲーム中でのキビキビとした挙動にしっかりと落とし込まれているのだろう。

 

3D空間の中を自由自在に動き回るゲームは今やジャンルを問わず巷に溢れているが、24年前に発売された初代を今プレイしてみても、その操作性や挙動に対する不満は全くない。むしろ、24年も前にこれだけ完成度の高いゲームを世に送り出した宮路氏とゲームアーツの先進性に驚くと共に、その楽しさのベースとなっている「走る快感!」という、極めてベーシックな部分へのしっかりとした目配せがこの作品の面白さの根源を支えているのだなと思ったりもする。

 

次は「撃つ快感!」について考えてみよう。

 

このFPSの最も基礎的と言えるアクションについても、ガングリは前述の『ガンダム』や後の『アーマードコア』とも全く異なる別の回答を用意した。それがガングリの基礎中の基礎とも言える射撃法、「偏差射撃」の概念である。

 

ガンダム』や『アーマードコア』といった作品における射撃法は、画面上の敵をロックオンした状態で射撃ボタンを押すとコンピューターが弾道を補正して自動的に敵に弾丸が直撃するというもので、命中率に多少の誤差はあれど、セミ・オートマチックな印象が強いものであった。

 

これに対して、ガングリではATM以外にこのようなロックオン機能や弾道の補正機能はなく、あくまでもプレイヤーが狙いをつけ、撃ち、当てることに重きを置いたマニュアルチックな射撃法が基本であった。この際、移動する敵の未来位置を予測して射撃を当てる技術のことを「偏差射撃」と言い、これがガングリの面白さの一端である「撃つ快感!」をなす最も大きな要因であったと思う。

 

技術的に考えれば、ガングリにもこのようなロックオン機能や弾道の補正機能を搭載することは可能だった筈である。現代の戦車や装甲車にだって弾道を予測し、射撃を補正する機能は搭載されているのだから、最新兵器であるHIGH‐MACSやAWGSにそれが搭載されていたって設定的にも何の問題もないというか、むしろ搭載されていなければおかしいくらいなのである。

 

にも関わらず、敢えてマニュアルで照準することにこだわったのは、それらを搭載すると「狙い」、「撃つ」というFPS本来の面白さが損なわれるという判断があったためだろう。前述の操作系統の部分に関連して、宮路氏は「操作を簡単にしようと思えば出来るのですが、それだけやれることが減り、面白みが減ってしまう」という言葉を残しているが、この言葉はガングリの仕様がどのような基準で採用されているかを示す良い例だろう。

 

敢えてマニュアルチックな射撃法を採用したのも、快適な操作性や「走る快感!」を追求したのも、全ては「面白さ」という一つの尺度に向かっての工夫なのである。「狙い」、「撃ち」、「当てる」。このFPSの最も根源的な面白さとも言うべきものをきちんと抑えて外していない辺りが、ガングリが他のロボゲーと一線を画す点だろう。

 

そしてそこに「飛ぶ快感!」を加えた点もガングリの優れた部分と言える。

 

もっとも、「ロボゲーでジャンプや飛ぶことなんて珍しくないじゃん」と思う方もいるかも知れない。前述の『ガンダム』や『アーマードコア』もそうだが、多くのロボットゲームではジャンプ機能は当然のように採用されている。3D空間のフィールドの中における「ジャンプ」という行為は、横の広がりと奥行きの広がりにプラスされる「縦の広がり」を感じさせるアクションでもあり、3D空間をよりプレイヤーに強く感じさせる上でも重要なものだと思う。

 

ガングリが特徴的なのは、このジャンプという行為を「三次元機動」というヘリのような空中機動として捉えて一定の滞空時間を設けた上で、そこに「上空から攻撃すると二倍のダメージボーナスが掛かる」という設定を加えたことだろう。

 

多くのロボゲーの場合、ジャンプは単に敵の攻撃を回避するための手段であったり、段差や地形を踏破したりといった移動手段の延長上の役割しか果たしていなかった。回避手段としての重要性はガングリも変わらないが、上記のような攻撃ボーナスと一定の滞空時間が設定されたガングリではより積極的に空中に飛び上がる意味が生まれ、攻撃アクションの一つとしても活用することが可能になった。実はこのことが「飛ぶ快感!」を倍加させていると考えられる。

 

空中に舞い上がってGUNで敵を狙い撃つ、MGを掃射する、RPで一気に部隊ごと吹き飛ばす。戦術上圧倒的に有利な上空を瞬時に確保し、敵を倒していく感覚は明らかに『ガンダム』にはなかったものだ(『アーマードコア』では徐々にトップアタックの重要性が増してくるが、しかし、それはもう少し先の話である)。

 

このことは続編の『Ⅱ』を見るとよりハッキリする。狙いが多少甘くても当たってくれる上に、空中からなら戦車でも一撃で破壊出来るVTG(近接信管榴弾)が実装されたお陰で空中戦は更に楽しくなった。飛行中でも次々に戦車を屠って行ける上に、動きが速く耐久力の高い高機動AWGSに対しても有利なポジションを取って間合いを確保出来る意味合いが生まれた。

 

また、バリエーションの増えた多彩なステージの攻略手段としてもジャンプの重要性は増していて、ヴォストーチナャ・リツァのような氷の床面のステージでは機体を安定して制御する手段として、チーナンのような移動に制限を受けるステージでは橋と橋の間を結ぶ唯一の移動手段として、ジャンプが活用されるようになった。

 

このように、ジャンプと一口に言ってもガングリにおけるジャンプは他のロボゲーのそれとは意味合いが大きく異なり、ゲーム上でも特に重要なアクションの地位を占めていると言っても過言ではない。

 

そしてこれらの「三つの快感」を正確にゲームの中に落としこんだ辺りに、ガングリのゲームとしての面白さはあるのだと思う。

 

恐らく、これらの「三つの快感」は記事の冒頭でも書いた通り、3D空間を自由自在に動き回るゲーム、或いはFPSにとって最も基本的な快感でもあるのかも知れない。自由に走り回る快感、狙い撃つ快感、空中を飛び回る快感、こうしたFPSや3Dアクションゲームの根本的な面白さ、楽しさ、快楽原則をきちんと抑えた辺りにこそガングリの面白さはあり、あのキャッチコピーは開発側がそのことに対して非常に自覚的であったことの何よりの証左ではないか。

 

ロボットを操縦するという感覚

このように、1995年版の『機動戦士ガンダム』と比べると『ガングリフォン』は一回りも二回りも3Dシューティングとしての完成度が高く、ことに「3D空間を自由自在に動き回る感覚」という点では段違いの自由度を提供していた。

 

もっとも、ガングリ発売から半年後の1996年9月から翌年の3月にかけて名作と名高い『機動戦士ガンダム外伝』三部作*4が立て続けに発売されたため、ガンダムゲームの側もどんどん進化していったのは間違いないのだが、それと比べても『ガングリフォン』の出来の良さは頭一つ飛び抜けていたように感じられる。

 

実際、この初代は今プレイしてみても全く古臭さを感じさせない。ご存じのように筆者は相当なブレイズ党で、プレイ時間も恐らくブレイズが一番長いというくらいだが、その筆者の目から見ても初代やⅡの映像が古臭いなどと思ったことはないし、そのゲーム部分に関してはむしろ新鮮に感じる程だ。

 

最近もプレイし直していて思ったのだが、プレイしていてストレスを感じる場面が全くなかったことは意外だった。操作性もシステムも圧倒的に進化したはずのブレイズをやりこんでいる筈なのに、初代やⅡの操作系もシステムにも特に不満を感じなかった。旧作特有のオブジェクトの表示距離の問題はあれど、交戦距離自体が短いため、これもストレスというほどではなく、問題なくプレイ出来た。よくよく考えると、これは中々凄いことではないかと思う。

 

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ガングリフォンⅡ』のオプション画面。表示されているのはサターン用のツインスティックコントローラーだが、これに限っては実際の使用感はかなり悪かったらしい。やはりパッドに最適化されているのだろうか。

 

取り分けて操作性の快適さは折り紙付きで、プレイしていて全く違和感を感じなかった。これが例えばバイオハザードシリーズだったら、『4』のアシュリーパートがそうであるように、急に旧作の操作系統に戻されたら相当なストレスや戸惑いが生じると思うのだが(『4』のアシュリーパートはそれを見越した秀逸な演出でもあるわけだが)、ガングリフォンに関して言うとそういうことは全く起こらなかった。

 

ブレイズのアナログスティックによる直感的な操作も、旧作のボタンの使い分けによる前進・後進のギアチェンジ方式も、どちらも筆者は違和感なくプレイすることが出来たし、ストレスは感じない。こうしたプレイビリティへの細かい配慮が丁寧になされている点も、ガングリの優れた部分と言えるだろう。

 

そしてこの「三つの快感」はブレイズにおいても追及されており、更に高められることになったと感じられる。

 

既に述べたように、アナログスティックを使ったより直感的な操作はガングリの「走る快感!」を更に高めてくれた。スティックを傾ける角度一つで微妙なスピードの調整やスライド移動が出来るようになったことで、敵との位置取りや間合いの調整といった細かい操作が以前よりも俄然やり易くなった(もっとも、アナログスティックによる操作だと「歩行」を使うことがほとんどないので、「歩いている感じ」を体感する場面は減ったかも知れない)。

 

新たに実装されたズーム機能と部位判定の導入によって敵に照準を合わせて「狙う」行為の楽しさは更に増し、「狙撃」と「クロスコンバット」という新アクションを提供しつつ「撃つ快感!」を何倍にも高めてくれた。

 

そしてよりリアルで物理的な挙動に変更されたジャンプは、旧作のジャンプにはない、特別な快感をもたらした。R氏も指摘するように、あの滑空時の浮遊感は正に「飛ぶ快感!」を感じさせるものであり、ジャンプするだけでも何だか楽しい挙動になっている。これを見ると、もしかしたら、「飛ぶ快感!」だけはブレイズになって初めて実現されたのかも知れないと思わせるような、そんな快感を感じさせるのだ。

 

個人的な見解を言えば、ブレイズはシリーズの中で最も操作性が良いガングリであると同時に、最も「動かしていて楽しいガングリ」であると思う。旧作に比べて操作系がより直感的になってシステムも深化した分、出来ることも相応に増えたため、プレイヤーの技術が介入する余地が増えている。

 

例えば、旧作では戦車を倒すときは地上で倒すか、空中に舞い上がって倒すかくらいの選択肢しかなかったが、ブレイズではそれに加えて敵の攻撃をかわしつつ接近して上面装甲を撃ち抜く、戦車より高い場所に陣取って上面装甲を撃ち抜く、或いは遠距離から狙撃するという風に、敵に対する対処の仕方が大幅に増えている。

 

そしてこれは操作性の向上だけではなく、部位判定の導入や地形の大幅な立体化といったシステム面の進化によるところも大きい。ブレイズになって行われたあらゆる改変が、プレイヤーの取り得る選択肢を大幅に増やし、その操縦技術の介入する余地を拡大することに寄与しているのである。

 

これは宮路氏が語っていた、「操作を簡単にするとやれることが減り、面白みが減ってしまう」という言葉の対極にあるのが分かると思う。これらの工夫によって、ブレイズのステージはどれも密度の高い戦場となり得ており、その内部に非常に豊かなゲーム空間を形作っているということが出来ると思う。ボリュームは少なくとも、その中身は非常に骨太なのだ。

 

これはあくまでもマニュアルチックな射撃法を採用しているブレイズのシステムにも言えるだろう。ブレイズでは選べる武装も大幅に増えたが、そのほとんどは誘導型の武装ではなく、プレイヤーによる弾道予測を必要とする武器ばかりだ。

 

これらのことを考えると、ブレイズはある意味、マニュアルであることにこだわり続けたシリーズの究極系であると言えるのかも知れない。より直感的で精細な移動方式、選択の幅が増えた射撃法、浮遊感が増し、使っていて楽しいジャンプ。それらはいずれもプレイヤーの手にある確かな手触りを残す。

 

それは恐らく、「自分がロボットを操縦している」という手触りである。

 

コンピューターでもなく、AIでもなく、他ならぬ自分自身が「HIGH‐MACSを操縦しているのだ」という手触り、感覚。それがコントローラーを通してプレイヤーの手に強く残る。ここにこそ、ガングリの面白さ、楽しさの根源はあるのではないだろうか?

 

これはシリーズのどの作品にも言えると思う。前進・後進ボタンを連打して機体を操作するギアチェンジ方式にせよ、アナログスティックの微妙な傾き具合で機体を制御する方式にせよ、そのいずれの方式でもガングリは常に「機体との一体感」を感じさせてきてくれた。

 

まるで自分の手足のように、身体の延長のようにHIGH‐MACSは動いてくれる。恐らく、数あるロボゲーの中でもこれほど機体との一体感を感じさせてくれるゲームは珍しいのではなかろうか?(最近で言えば『TITAN FALL』などがそれに最も近かっただろうか)この「人機一体」となる楽しさこそ、実はガングリの本当の面白さなのかも知れない。

 

そしてこの感覚は、地形に隠れながら戦う場面が多くなったブレイズにおいて最大限にまで高められたと筆者は思う。ウクライナで四方八方から撃たれるATMをギリギリで回避する時、エレファントが放った砲弾に思わずモニターの前で頭を下げてしまった時、筆者は間違いなくゲーム画面の中の戦場に入り込んでいた。その時、自らの操る16式は身体の延長であることをやめて、自分の身体そのものになっていたのかも知れない。これを臨場感と言わずして何と言おう?

 

筆者は以前に書いたブレイズの考察記事の最後に、『デモンズソウル』の梶井健プロデューサーの言葉を引用して次のように書いた。

 

「ゲームをする楽しさ・・・・・・つまりゲームで得られる快感というのは、クリアしたあとのご褒美だとか、そういうものではないという意識が、私や宮崎さんのなかにありました。プレイを続けながら徐々にプレイヤー自身が上達していく、その過程こそが楽しいんだ!という考えを共有していました。そういうゲームは最近では少なくなってしまったので、今そのような作品を作ればきっとニーズがあるはずだという気持ちもありました」

 

この言葉はそのままガングリフォンという作品にも当てはまると思う。

 

HIGH‐MACSという架空のロボットを乗りこなし、徐々に操作に習熟していく快感。最初は前進も後進もままならなかったのに、プレイする内に自然と偏差射撃やスライド移動、果ては砲塔旋回まで使いこなしてしまうようになっている不思議な驚き。それらの磨き上げた操作技術でクリア不能にも見えた困難なミッションを達成する喜び。

 

続々と現れる敵の増援をいなし、撤退する味方を援護し、ボロボロになりながらミッションを達成した時、初めて感じることの出来る達成感。優れたゲームが与えてくれる報酬はそれらをおいて他にないと思う。

 

当時はまだ飛躍気味の推論であったように思うのだが、今回改めて「三つの快感」を具に見てきたと今となっては、この推論もあながち間違いではなかったように感じる。

 

ネット上を見ていると時々、「ガングリはロボゲーではない」という意見を耳にすることもある。そういう意見の論旨は大抵の場合、「あれは良く出来たFPSなのであって、ロボットを操縦する感覚には乏しい」というものだ。

 

しかし、筆者はそうは思わない。良く出来たFPSであるのは疑いないが、今回見て来たように、「ロボットを操縦する感覚」という点でも『ガングリフォン』は類い稀な感触をプレイヤーの手に残してくれていると思う。

 

そのことは「上半身旋回」という、昨今のロボットゲームでは見かけなくなった機能にも見て取れる。このアーケード版『バトルテック』から輸入したであろう「上半身旋回」のアイデアは、単なる模倣の域を超えて本作のゲームシステムと非常に良くマッチしており、昨今流行りの戦車ゲーにおける「砲塔旋回」のような機械的な挙動をプレイヤーに感じさせるはずである。

 

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アーケード版の『バトルテック』のポッド内部。90年代前半に日本でも流行し、宮路氏も足繁くゲームセンターに通っていたという。ガングリの直接の契機となった作品と考えられる。

 

この上半身旋回は左右の敵に対処しつつ走行間射撃を行うことが可能になったことで「走る快感!」や「撃つ快感!」の向上にも繋がっており、ジャンプ中に砲塔を旋回させつつ左右の敵を狙い撃つなどの非常に自由度の高い操作が可能になった。実際に使いこなすには相当な慣れが必要だが、それでもこれがないとかなり自由度が減り、操作の面白みは大分削がれてしまうことだろう。宮路氏の言葉を借りれば、「やれることが減ってしまう」わけだ。

 

そうした意味で言うと、「上半身旋回」はガングリがロボゲーであることの何よりもの証明であると同時に、その操縦感覚を更に高めてくれる魔法の仕様でもあるのだと思う。このような「腰の捻り」を操作方法として取り入れたロボゲー自体は先行する作品がいくつかあるものの、これほど上手く取り入れたという点で『ガングリフォン』のそれは特筆に値するだろう。

 

また、Ⅱのヴォストーチナャ・リツァやバレンツのステージを思い浮かべると、シリーズの方向性自体もまた、「ロボットを操縦する感覚」を高める方向に向かっていた可能性がある。 

 

この二つのステージは舞台が共に北極圏に近いということもあり、床面が氷で滑りやすいという特徴がある。このようないわゆる「滑る床面のステージ」というのは、ゲームではジャンルを問わずお約束のステージの一つで、それこそ『マリオ』や『ロックマン』を筆頭に多くの例を挙げることが出来る。これらのステージの本来の目的は、従来の挙動とは全く別の動きやその制御を求められるために、それだけで難易度がアップするというところにある。

 

ガングリにおけるこれらのステージの意味合いも基本的にこれに準じている。氷の表面でコンバットタイヤが滑ってしまい、ローラーダッシュの掛かりが悪くなることから、スピードに乗るまで若干のタイムラグが生じる。同様にブレーキの掛かりも悪いため*5、プレイヤーはそれらを見越して機体を制御する必要があるわけだ。

 

そしてガングリの場合、この悪条件の中で機体を制御する感覚というのは、実はそれがゲームとしての難易度を上げるためだけではなく、「ロボットを操縦する感覚」を高めることにも貢献しているのではないかと思う(マリオなどでのそれは、明らかに「操縦する感覚を高めよう」という配慮ではないと思う)。

 

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ロックマン11 運命の歯車』に登場する氷のステージ。多くのゲームにおいて氷の床で滑るステージというのはプレイヤーに嫌われる傾向があるらしいが、『Ⅱ』のヴォストーチナヤ・リツァはHIGH-MACSを操縦する感覚が一際強まるので、実は楽しいステージに仕上がっているのかも知れない(個人差があります)。

 

前述したようなローラーダッシュによる移動やブレーキングのタイムラグがある以上、プレイヤーはそれらを考慮しながら機体を制御しなければならない。また、攻撃する際には床面から離れてその影響を受けないジャンプ攻撃が一際重要になっていて、ジャンプは同時に機体を制御する上でも非常に有効な手段となり得る。

 

この二つのステージは比較的開けた地形のステージではあるが、ジャンプの価値は他のステージ以上に重要なのだ。これらのことからも、これらのステージでは特に「ロボットを操縦している感覚」が強くなるように感じられる。これほどロボットらしさ、機械らしさを感じさせる工夫もないと思うのだが、どうだろうか?

 

ガングリフォンとは何か?

我々ガングリファンはつい、初代を覆っていたミリタリーテイストや硬派な雰囲気といったゲームシステムとは別のもので作品を評価しがちだ。実際、ガングリの魅力は一般的にその初代に大きな部分を負う「ミリタリーテイスト」や「リアリティ」という言葉で説明され、シリーズを重ねる毎にそれが薄れてきたというのが一般的な見解であった。

 

だが、筆者はそれに対して少し疑問を持っている。

 

Ⅱからブレイズに至る過程で「ミリタリーテイスト」が失われ、それがファンからの強い反発にあったのは事実だが、テイストはどこまで行ってもテイストであって、「本質」とは異なるものだ。初代の放つ雰囲気やその作風が多くの人々を惹きつけるだけの魅力を持っていたのは確かだが、 ではそれがガングリの「本質」なのかというと、これは大いに議論の余地があると思う。

 

我々は今回、「走る快感!撃つ快感!飛ぶ快感!」、「隠れながら撃つ感覚」、「ロボットを自由自在に操る感覚」といった、いくつかの「感覚」を見てきた。筆者はむしろ、これらの中にこそガングリの本質はあったのではないかと思っている。

 

そしてこの「感覚」に関して言えば、GA製のシリーズ三作はいずれもそれを有しており、その仕様や挙動に多少の変更はあれど、どれも非常にレベルの高いものになっている。

 

もし「本質」という言葉がある概念なり作品なりの中にある、それがそれであるために必須のもののことを指しているとするならば、実は「ミリタリーテイスト」はガングリの本質ではないという答えもまたあり得る。その「ミリタリーテイスト」が薄れて尚、初代同様に「三つの快感」をきちんと実現しているブレイズの存在がその何よりの証左だ。

 

ブレイズは一般的に「ミリタリー色が薄れた」と言われる作品だが、これまでの考察でも見て来たように、実は最も企画初期のコンセプトに近づいたガングリでもある。そういう意味で言うと、実は初代以上にガングリらしいガングリと言える作品でもあるのではないか。

 

恐らく、初代やⅡの時点ではハード性能の限界のために全てのコンセプトを達成することが出来なかったのだと思う。それを端的に示すのが両作に共通する視認距離(表示距離)の問題であり、「隠れながら撃つ感覚」というコンセプトの未達成な部分ではなかったかと思う。つまり、多くのファンの評価とは裏腹に、宮路氏にとって初代は必ずしも「理想形」と呼べる作品ではなかった可能性があるのだ。

 

宮路氏にとってSS時代の作品はむしろハード性能の限界との戦いだったのではないか。レーダーを搭載して短い視認距離(表示距離)を補ったり、或いはノボシビルスクの吹雪のように強い気象条件を設定してそれを出来るだけ感じさせない工夫をしてみたりと(実際にそういう目的で行われた工夫かはともかく)、旧作はハード性能の制約の中で何とかやりくりしようとしていた印象が強い。

 

初代の有名なエピソードとして「発売間もないセガサターンの性能を100%使い切った」というものがあるが、これはゲームアーツの高い技術力を示すものであると同時に、セガサターンのハード性能の限界を示すものでもあったと思う。

 

恐らく、宮路氏がハード性能の制約から解放されて本当に作りたいものが作れる状況になってきたのはPS2からなのだと思う。以前の考察でも見たように、「隠れながら撃つ感覚」というコンセプトは視認距離の増大や地形の大幅な立体化、部位判定の導入といった、複合的なシステムの進化がなければ達成することは出来なかったのであり、それを実現するためにはどうしてもPS2クラスのハード性能が必要だったのだろう。

 

実際、ガングリはPS2になって格段に進化した。それはグラフィックだけでなくて、ゲームの根本的なシステムそのもの、あらゆる部分に及んでいる。そのブレイズが発売されたのが前作の「Ⅱ」から僅か二年後、初代から数えても僅か四年後に過ぎないということを考えると、その変化が如何にドラスティックなものであったかが分かるだろう。

 

と同時に、この僅かな期間の内にガングリが目まぐるしくその姿を変え、ブレイズのような作品が出てきたということは、それが「模索」や「試行錯誤」の結果ではなく、むしろ元々のコンセプトであったと考えた方が自然ではないだろうか?

 

ブレイズにおける変化はライトゲーマーの取り込みを図った結果ではなく、マンネリ化を嫌った結果でもなく、PS2というハードによってもたらされた技術的革新が本来のコンセプトの実現を可能にした結果であるとしたら?

 

これらのことから、実はブレイズはむしろ正統派過ぎるくらいに正統派の進化系であったという結論に至ったとしても、それほど突飛なものではないように思える。

 

勿論、アイテムボックスやイフェクトグッズまでが初期コンセプト通りだったとまでは思わないが、その二つにしてもこの初期コンセプトを実現するという大目的の前ではそれほど大きな瑕疵には思えない。それどころか、もしかしたら前述した諸種の「感覚」をより高めることに貢献していたのではないかとすら思う時もある。

 

恐らく、「補給ヘリ」も「レーダー」も『ガングリフォン』という作品の本質ではないのだと思う。『バイオハザード4』がシリーズの本質が旧来のような「ラジコン操作」や「固定視点」にあるのではないことを証明したのと同様に、ブレイズもまた、ガングリの本質が「補給ヘリ」や「レーダー」にあるのではなく、もっと別のところにあるのだということを示唆しているのではないか。

 

SENSE of GUNGRIFFON

ガングリフォン』には恐らく二種類の「リアリティ」がある。その世界観や設定に説得力をもたらす「思考のリアリティ」と、実際のゲーム体験を通してプレイヤーを説得する「肉体(フィジカル)のリアリティ」だ。

 

以前の記事でも書いたが、「思考のリアリティ」というものは過剰な設定で作品をデコレートすることから生まれてくるものではない。多くのロボゲーが戦車をロボットの引き立て役として描く中で、「戦車がロボットに敵うはずはない」という厳しい現実認識に立ち、その上で尚も「戦車に対抗出来るロボットとはどんなものか?」という全く逆の思考から出発したところに、ガングリの「思考のリアリティ」の強度はあった。

 

もう一方の「フィジカルのリアリティ」は、正に今回見てきたような操作性やプレイ体験、そこで知覚し得る「感覚」の中にこそある。「自分の手足のようにロボットを操る感覚」、「本物の戦場にいるかのような臨場感」、「走る快感!撃つ快感!飛ぶ快感!」、そうした「フィジカルのリアリティ」とでも言うべきものをコンセプトとして鋭く意識している辺りが、本作と他のロボゲーを分ける大きな部分だと思う。

 

そしてこうした「フィジカルのリアリティ」がどこからもたらされたのかと言えば、それは恐らくディレクターである宮路氏の体験にこそ求められるのではないか。

 

以前にも紹介したように、宮路氏は筋金入りのサバイバルゲーマーでもあり、ゲームアーツ内部のサバゲー部に所属して実際にフィールドで遊んでいたようだ。その入れ込みようは元スタッフの方のブログにも詳しいが、このサバゲーでファイールドを駆け回った体験が『ガングリフォン』成立の大きな要因となったことは岡田氏の言葉などからも明らかである。

 

これは筆者の個人的体験に過ぎないが、ガングリをプレイしていると(特にブレイズでそう思うのだが)時々息を切らしてしまいそうになる瞬間がある。その時の感覚は確かに自分自身がフィールドを走り回った後のようでもあり、心地良い疲労感がある。この感覚こそ、実は宮路氏がゲームの中に落としこもうとしたものなのではないかと思う時がある。

 

また、このことに関連して宮路氏と親交が深かったゲームクリエイター遠藤雅伸*6は、インタビューの中で自身が教える学生達とのやり取りを例に引きつつゲーム作りについてこう語っている。

 

遠藤 (中略)問題はアタマで面白いと思えるゲームを作っちゃうことです。「それ面白いのかな? 俺は面白い感じがしないんだけど」って言ったら、「面白いですよ。こうなってるし、ちゃんとトレードはあるし、ハイリスクハイリターンだし。すごくバランスが取れてて、いいゲームだと思います」って言うんです。それで、「じゃあスマンけど、もう1回やってみて」って言って、もう一度遊ばせると、「わあ、面白いな」って言うんで、またやらせるんです。

 

「え、ホントに面白い?もう1回やってみて」→「まだやるんですか?」→「なんで嫌なの?面白いんじゃないの?」→「いや、う~ん・・・・・・」、こうやっているうちに、思わず徹夜しちゃうゲームってアタマで考えた面白さじゃないってことがわかってくるんです。アタマで考えたものが面白いわけじゃない。ソコに乖離があるっていうことを、彼らは知るわけですね。アタマで考えた「面白い」と感覚的な「面白い」は実は面白さの質は違う。教えなきゃいけないのはソコだっていう。*7

 

恐らく、宮路氏と遠藤氏という二人の優れたゲームクリエイターはこの「感覚的な面白さ」というものを強く意識していたに違いない。それは頭の中で生まれるものではなく、もっとフィジカルなもの、感覚的なものの中から生まれてくるのだと。そしてそれは確かに、両氏の作るゲームの中にしっかりと落とし込まれていると感じられる。

 

それはディレクターを林田浩太郎氏にバトンタッチしたブレイズでも変わりはない。むしろ、ブレイズはシリーズの中で最も「感覚的な面白さ」に寄ったゲームであり、プレイを通して体験する「感覚」や「快感」を最大限に高める方向で調整がなされているようにも見受けられる。

 

これまでブレイズが一般に「アクションに比重を置いた作品」という風に理解されてきたのも、この「感覚」や「快感」を高める調整がなされている故だろう。そしてこの方向性は実はブレイズで突然生まれたものではなく、初代からⅡ、ブレイズと至る中で、ずっと受け継がれてきたものでもあったはずなのだ。

 

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ファンからの評価はイマイチなブレイズだが、「動かしていて楽しい」という意味で言えばもっとも「楽しい」ガングリかも知れない。

 

我々ファンはつい、初代という偉大なる古典に引き寄せて「ガングリとはこういうものだ」と語ってしまいがちだ。相当なブレイズ推しの筆者でさえ、時にその呪縛から逃れるのは困難であり、ブレイズを初代と比べつつ、「ここがもっとああだったら」とか「ここがもっとこうだったら」という風に考えてしまう時が往々にしてある。

 

だが、こうした考え方は必ずしも有効ではないという気が今はしている。

 

ブレイズが初代同様に補給ヘリを採用していたらより良いゲームになったのか? 

 

レーダーがあったらもっと面白いゲームになっただろうか?

 

或いは、武器の射撃時のSEがもっとリアルであれば?

 

恐らく、それらは作品の本質とは何も関係がないのではないか。それであっても良かったのかも知れないが、逆に言えばそれがなくても成立するし、いくらでも替えが効いてしまうものであったということをブレイズは証明してはいないだろうか。

 

ブレイズは確かにファンの望んだガングリとは違ったのかも知れない。だが、それは必ずしもブレイズが「ガングリではない」ことの証明にはならない。

 

我々が普段、『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』、『バイオハザード』といった人気シリーズをその最初のナンバリングタイトルだけで語ったり、判断するということがないように、ガングリもまた、初代だけで全てを語ることは恐らく不可能である。

 

原典の素晴らしさは勿論であるが、もしそれらのタイトルにその初代だけしか存在しなかったとしたら、それらの作品の本質というものはかえって見え辛くなったはずだ。

 

ドラクエに『Ⅷ』がなかったら、ファイファンに『Ⅶ』がなかったら、バイオに『4』がなかったら、恐らく、それらのシリーズは今も続く人気コンテンツであったかは相当に怪しいところでもある。それはそれらが好調なセールスを記録したからというよりも、コンテンツに新たな要素を入れることで、作品の変わらぬ本質を浮き彫りにするからである。

 

時代の潮流に合わせて作品は変化する。しかし、変化せずに残るものもまたある。むしろ、原典から離れた後年の作品ほど、作品の本質を浮き彫りにさせるということはままあるのだ。いくつものシリーズ作品や派生作品が作られるからこそ、作品の本質はより分かり易く、より強固になる。

 

それは後にファンから更なる不評を喰らった『ガングリフォン アライドストライク』が発売され、 それが結果的に『ブレイズ』の評価を高める役割を果たしたことからも分かるだろう。

 

『アライドストライク』はレーダーを復活させ、補給ヘリを復活させ、通信機能を使った対戦モードまで追加し、一見するとブレイズよりもファンの求めるものに近いガングリを提供してくれたはずだった。が、海外のデベロッパーに委ねられたその内容は、むしろブレイズの再評価を後押しする結果となり、「ガングリがガングリであるために必要なものは何か?」という問いかけを残すこととなった。

 

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ガングリフォン アライドストライク』の一場面。開発が海外のデベロッパーに移ったこともあり、往年のファンからの評価はかなり低いものとなった。しかし、補給ヘリやレーダーを復活させる一方、通信対戦を実装し、狙撃モードも搭載されているなど、システム面だけを見ればそれまでのシリーズの集大成の感もある作りになっている。また、右の輸送機との比較を見れば分かるように、AWGSのスケール感が見直されるなど、その設定に関しても諸種の改変がなされている。

 

ブレイズという作品はミリタリーテイストが薄れからこそ、逆にガングリという作品の本質がかえって見えやすくなっていると思う。 我々はそれを「ライトゲーマー向け」であるとか、「未完成」であるとか、「演出の後退」という、自分達に理解し易い言葉で片付けてしまうが、果たして本当にそうだったのだろうか?

 

むしろそこに現れていたのは、我々がまだ知らなかった『ガングリフォン』の本当の姿だったのではないか?

 

補給ヘリが廃止され、レーダーが廃止された時、多くのファンは戸惑いを隠せなかったし、それを受け入れることを拒んだ。しかし、それは「ミリタリーテイスト」というベールに包まれていたガングリの知られざる姿が露出した瞬間でもあり、我々がまだガングリのことを何も知らなったことの証明にもなっていたと思う。

 

補給ヘリがなくとも、或いはレーダーがなくとも、ガングリは成立してしまった。筆者にはそれらが、単なるテイストや演出、ファンの好みやマーケティング、或いは完成度やライトユーザー向けか否かといった問題を超えて、もっと作品の根源に関わる本質的な問題を提示しているように思われてならない。

 

ブレイズを評価する際に一般的に用いられる「ゲームとしては良作」という言葉には、暗に「ガングリとしては認められない」というニュアンスが含まれているのだろうが、この評価には大きな穴がある。この評価が一定の効力を持つためには、「ではそもそもガングリとは何か?」という根本的な問いに答えなければならない。

 

ブレイズの評価が難しくなる理由もまた、この辺りにあるのだと思う。「ガングリフォンとは何か?」という問いかけに答えることは、決して容易なことではないからだ。

 

だが、その問いを解く鍵はやはり『ブレイズ』にこそあるのだと筆者は確信する。レーダーが廃止され、補給ヘリが廃止され、「これはガングリではない」と言われ続けてきたこの作品ほど、「ではガングリフォンとは何か?」と考えさせる作品は他にないからだ。

 

そしてそれは個々のファンが『ブレイズ』をガングリとして認めるか、認めないかということとはおよそ関係がない。なぜならば、認めるにせよ、認めないにせよ、「ガングリフォンとは何か?」という問いに答えることなくしてそれは不可能だからである。それゆえに、『ブレイズ』は全てのガングリファンに対して重大な問いを提起し続けるはずである。

 

それを感情的に「クソゲー」と罵倒してみてもせんないことだ。そんな言葉を吐いたところで、作品を理解するための手掛かりにはならない。自分の気に入らない作品に「クソゲー」のレッテルを貼るのと、気に入った作品を「神ゲー」と褒め称える行為の間には言うほど大きな差はない。

 

『ブレイズ』におけるレーダー廃止の試みを丁寧に分析すれば、それが旧作におけるオブジェクトの表示距離の限界という問題から解放された結果であると同時に、旧作がそれだけハード性能の制約を受けていたことに気付かせてくれるように、『ブレイズ』という作品を考えることによって、初代についての理解もまた、深まるのである。

 

作品は個々に独立しているのではなく、それぞれが繋がっているのだ。個々の作品はそれぞれがそれぞれを映し出す鏡なのである。それは語られることの少ない『アライドストライク』であってもそうであるし、また、ファンの手によって作られた『HIGH-MACS Simulator』もそうである。あらゆる作品はあらゆる作品への回答であり、批評になり得る。

 

結局のところ、「ガングリフォンとは何か?」という問いに答えるためには、言葉を尽くして丁寧に考えを積み重ねていくしかないのだと思う。いくら初代やⅡを「神ゲー」だと褒め称え、ブレイズやアライドストライクを「クソゲー」だと貶めてみても、その答えが出るわけではない。どこかに辿り着けるわけでもないし、ファンの望んだガングリが復活するわけでもないのだ。

 

必要なことはむしろ、それらの作品が何をやろうとしたかを理解することだろう。そしてシリーズ作品を俯瞰しながら、「ガングリとは何か?」ということを考えてみることである。その時に初めて、『ガングリフォン』という作品の本質は浮かび上がってくるのではないか?

 

ブレイズという作品には、恐らく宮路氏が初代やⅡでは出来なかったことややりたかったことが沢山含まれている。そしてそこには、まだ我々が知らなかったガングリの魅力の一端が、神話のグリフォンに守られた財宝のように隠されているのだと思う。

 

ガングリフォン』という作品が何を目指し、どこに向かおうとしていたのか?それをもっともよく知るクリエイターがこの世を去った今、ブレイズはそれを知る上で最も貴重な手掛かりとなるはずである。

 

 

 

 

 

 脚注

*1:1995年にバンダイから発売されたゲーム。当時はまだ発売されたばかりのプレイステーション用ソフトとして開発され、コックピット視点のガンダムゲームとして話題になった。後に『機動戦士ガンダムVer2.0』と銘打った続編も発売された。

*2:スーパーファミコン用の2Dアクションゲーム『がんばれゴエモン2 奇天烈将軍マッギネス』に登場する巨大ロボット。プレイヤーはこれに乗り込み、敵の巨大ロボットと戦う。

*3:当時繰り広げられていたソニーセガの熾烈なハード戦争をネタにしたソニーのCM。別々のモニターでゲームをやっていた「アンソニー」と「セガール」の二匹の猿が、母親に「ご飯よ~」と呼ばれるが、セガールはあっさりコントローラーを放って部屋を出て行くのに、アンソニーの方はいつまでゲームにかじりついていて母親に怒られるという内容のだった。

*4:機動戦士ガンダム外伝Ⅰ 戦慄のブルー』と『機動戦士ガンダム外伝Ⅱ 蒼を受け継ぐ者』、『機動戦士ガンダム外伝Ⅲ 裁かれし者』からなる三部作。

*5:正確には『ガングリフォン』シリーズの操作系にブレーキはないが、進行方向とは逆の方向にローラーダッシュを掛けることで急速にスピードを落とし、疑似的なブレーキ代わりになる。

*6:ゲームクリエイターナムコ所属時に「ゼビウス」や「ドルアーガの塔」などの大ヒット作品を手掛け、後に独立して株式会社ゲームスタジオを設立。宮路氏とも親交が深く、生前の宮路氏とのエピソードなどが公式ブログにも綴られている。

*7:WHAT`IN tokyo 黒川文雄のエンタメ偉人伝vol.11 ゲームの神様・遠藤雅伸(中)「ゲームから僕は逃げない」教育の道に進んだ経緯とは?