ガングリフォンは非常に意識的に作られたゲームだ。コンセプトの設定、仕様の取捨選択、レベルデザイン、世界観やAWGSの設定に至るまで、あらゆる部分に開発者の明確な意志が反映された、非常に完成度の高いゲームである。
こういうゲームは古びない。偶然に拠るのではなく、時々の流行に乗るのでもなく、明確なコンセプトから逆算して仕様を形作っていく本質的な作業は、作品に永続的な命を吹き込む。それは何もゲームに限らない。演劇や音楽、詩に小説、絵画、映画、あらゆるジャンルにおいて「名作」と呼ばれる作品の必須条件だ。
では一体ガングリフォンのどこがそんなに意識的なのか?
それは例えばガングリ名物の補給ヘリである。これはあらかじめ決められたタイムテーブルに基づいてステージ外から味方のヘリが飛来し、所定の位置に降下後、プレイヤー機が近づくと弾薬の補給や機体の修理を始めるというガングリ独特のシステムである。
これが昔ながらのゲーム、例えばマリオなら敵に当たって身体が小さくなってもキノコを取ればすぐさま回復するように、一般的に回復の過程は簡略化されたり、省略されて表現されるのが普通であった。ジャンルこそ違うものの、これはロックマンやバイオハザードといった他のアクションゲーム、見下ろし型のシューティングゲームなどにも同じことが言える。
ガングリフォンという作品がまずもって意識的なのは、この「回復」という概念を「補給」という行為に置き換え、補給ヘリに近づいて回復するという現実に近い過程を再現したところにあると思う。実際に整備員が降りて来て機体の修復を図るわけではないものの、補給中は機体を停止させなければいけない上にそれなりの時間も掛かることから、プレイヤーは補給のタイミングを自身で判断しなければならない。しかも、補給ヘリは敵の攻撃を受けて撃ち落されることもあるため、本来の作戦目標とは別に補給ヘリを守る必要にも迫られた。
このように回復手段に様々な制約を設けたことはリアルな世界観に合わせた見事な演出として機能する一方、いつ補給に向かうか、いつか補給を切り上げるかといった判断だけでなく、補給ヘリの進入ルートと離脱ルートを把握し、それに合わせた行動を求められるようになったことでより奥深い駆け引きや戦略性を作品に与えることともなった。
それ以前の方式や仕様を無思慮に採用することなく、作品のコンセプトに沿って新しい回復の形態を取り込み、しかもそれをゲームとしての面白さに繋げている辺りに、ガングリのガングリたる所以があると思う。
このことは初代で採用されていた暗視装置にも同じことが言える。ご存じのように初代において夜間や吹雪に対する対策として登場した暗視装置は、作品のミリタリーチックな雰囲気を盛り上げる上でも大きな役割を果たしていたかなり良いシステムだったが、なぜか続編のⅡやブレイズでは採用されず、支援砲撃や狙撃モードにそのボタンを明け渡してしまった。
これは初代において敵に施された迷彩効果が高過ぎたために多くのプレイヤーが敵の視認に困難を感じた結果、それに伴ってⅡ以降は敵の迷彩やステージの彩度が高まったことに起因している。特に夜間でも相当に明るいⅡでは暗視装置は不要であり、支援砲撃という新しい要素が試みられることとなったが、正直なところこちらはもう一つパッとしないシステムで*1、ブレイズではあっさり切られてズーム機能に変更されてしまった。
Ⅱの夜間ステージと違ってブレイズの夜間ステージは相当に暗いのだが、暗視装置が遂に復活することはなかった。これは筆者にとって長年の謎であったのだが、ブレイズはレーダーがなくなった代わりに質量センサーによる索敵に重きを置いた作品ということもあり、暗視装置で敵の姿が丸わかりになると面白みが減るという判断があったのだと思う。
こうした例はいくらでも挙げることが出来る。
通常のゲームならば一般的なヒットポイントを表すゲージや数値の類が存在しないのも初代ガングリフォンの大きな特徴の一つだった。初代ではプレイヤーはレーダーの枠の色の変化と警告音で機体の損傷度を把握する仕様となっており、ゲーム的なゲージ類が一切排除されたことで戦場の雰囲気がよりリアルに感じられる見事な表現となっていた。この工夫自体は余り目立たない工夫ではあったが、画面から「ゲームっぽさ」を排除しようとしたという点では後年の「BIOHAZARD」や「DEAD SPACE」などを先取りする非常に先進的なものだったと言えるだろう。
このように、ガングリフォンにおいて採用されている仕様は常に吟味されており、前作で採用された仕様がそのまま横滑りするということはまずない。それは機体の挙動やジャンプの仕様、武装の補給形態や敵の挙動に至るまで、全ての点でそうである。そしてそれらの変更された仕様について、世界観との設定とのすり合わせをキチンとしている点もガングリの大きな魅力だったと思う。
Ⅱで初代から扱える武装が増え、自機の挙動が重くなったことを主役機が重装型の12式改に変わったという設定の内に回収していたり、ブレイズでレーダーがなくなった設定を(やや無理があるとは言え)アメリカによるGPS規制という設定の内に回収していたり、ゲーム内の仕様と設定が極力乖離しないような努力がなされている。
また或いは、スタートボタンを押すとステージのマップや戦況図が呼び出されるのもそうした工夫の一つだったと思う。普通のゲームにおいてスタートボタンはゲームを停止させる役割を果たしている場合がほとんどで、ガングリもその例外ではないのだが、そのニュアンスは微妙に異なる。
スタートボタンを押すと現れるエリアマップや戦況図の存在は、それを呼び出す行為がゲームの中断ではなく、あくまでも「情報の確認」という行為として描かれることによってゲームへの没入を阻害しない。この重要性はガングリのステージがOSの起動画面とそのチェックシークエンスによって始まることを思い出して頂ければ理解し易いと思う。戦況図を呼び出すという行為は、HIGH‐MACSのコックピット内で過ごしているという感覚を邪魔することなく、プレイヤーの没入感を高めることに貢献しているのだ。
これらの点はこのシリーズが細部に渡って自覚的に作られた何よりの証であり、筆者がガングリを非常に意識的なゲームだと言う理由でもある。ガングリは非常に明確なコンセプトとそこから逆算された無駄のない仕様を持つ、非常に美しい作品だということが出来るだろう。
さて、これらのことを考える時に筆者の頭にはいつもジャンルの異なるある作品が思い浮かぶ。それは10年ほど前に発売されたダークファンタジーの名作「Demons` Souls」と、それに続く一連のソウルシリーズである。
この作品について多くを語る必要はないだろう。当時はまだ中堅のメーカーとして認識されていたフロム・ソフトウェアが送り出した同作は、大した宣伝がなかったにも関わらずクチコミで評判が広まって大ヒットを飛ばし、その年のゲームオブザイヤーを獲得してフロムの名を一躍世界に知らしめたばかりか、後に一世を風靡するソウルシリーズの先駆け的存在ともなった伝説的名作である。
その高い難易度から「死にゲー」と呼ばれることも多い本作だが、本作のディレクターを務めた宮崎英高自身は殊更難易度を上げたつもりはなく、「昔ながらのゲームの持っている面白さとは何かを考えた」という趣旨の発言を方々の媒体に残している。
筆者は常々、このソウルシリーズとガングリフォンシリーズに多くの類似を感じてきた。ジャンルも違えば世界観も違うこの二つのシリーズの何がそんなに似ているのか?首を傾げる方も多いかも知れない。
筆者も何が似ているのか上手く説明する言葉が見つからないのだが、恐らくそれはゲーム作りの手つきやその根本に横たわる設計思想のようなものではないかと思う。このことは宮崎氏のインタビューを読むとより良く分かると思うので、少々長いが引用したい。
(前略)
宮崎さんご自身が、まだ入社して3~4年目ですもんね。まぁただ、当時のインタビューでもお聞きしたと思うのですが、「Demon`s souls」って、システムの一つ一つにちゃんと意味や狙いがあって、さらにゲーム全体を通してみても、それらの整合性がかなり高いレベルで取れていると思うんです。
宮崎氏:
そう言って頂けると、とても嬉しいですね。
だから、「これは凄いな」と思うと同時に、どういう人が考えて作ったのだろうと、当時からとても興味があって。
宮崎氏:
うーん。何か特別な方法論があるということでもないんですけどね。
まず作りたいゲームのコンセプトがあって,それに対して必要な仕組みや要素を考えるという,まあごく当たり前のやり方です。ただ,そうだなあ……「なんとなく,皆がそうしているから」というのを避けるよう,気を付けていたかと思います。
それは,例えば「RPGってこういうものだよね」みたいな思考停止をしないって話ですか?
宮崎氏:
ええ。例えば「両手剣」の概念とか。いわゆるRPGで一般的なのは「両手で使う武器」「片手で使う武器」という分け方じゃないですか。
4Gamer:
はい。
宮崎氏:
プランナーから最初にあがってくる仕様も,最初はなんとなくそうなっていました。でもそこで一旦立ち止まって,「これは本当にこのゲームに最適なのだろうか?」と考えるようにしました。その結果「Demon's Souls」では,武器のすべてを両手でも片手でも持てる,持ちかえられる,という仕様になりました。
常に一般的な概念が悪い,採用すべきでない,ということではないんです。考えた末に,その本質的な意味,狙いを理解した上で採用するのであれば,それでいい。というか,広く採用されているものは,理由があって採用されているので,誰が考えても大抵同じような仕様になります。
4Gamer:
そうですねぇ……。
宮崎氏:
だけど,もし「なんとなく採用」を積み重ねてしまうと,結果としてゲーム自体が「なんとなくできたもの」になってしまうし,「なぜその仕様を採用したのか」が分かっていなければ,関連する判断も正しくできません。そして最終的には,ゲームの整合性が取れなくなってしまうのでは,と思うんです。
ですが,これはまだまだ理想です。徹底したいけど色々と難しくて,今後の課題ですね。
(中略)
4Gamer:
仕様のお話を聞いていてふと思ったのですが,チーム内では,ゲームデザインについての議論ってかなりされるんですか?
宮崎氏:
そうですね。時間が限られているので,必ずしも十分とは言えないかもしれませんが,できるだけ話すようにはしています。私自身,優秀な誰かと話すことを,思考の助けにしている部分もあったりするので。
4Gamer:
具体的にはどういったお話を?
宮崎氏:
先ほどの話と被るのですが「なぜこの仕様なのか?」「これで本当にいいのか?」ということをよく話します。
今の世の中,ゲームの「お手本」っていっぱいあるじゃないですか。ゲームデザインの文法のようなものも,各ジャンルで標準と呼ぶべきものが確立されていて,またその応用も無数にある。極端に言ってしまうと,マネしようと思えば,その対象には困らないわけです。
4Gamer:
そうかもしれません。
宮崎氏:
でも,おそらく,昔はマネする対象がなかったはずで,ゼロからゲームを作り,一つ一つの仕様を「どうだろうか?」と考えていたのだと思います。
4Gamer:
そうですね。
宮崎氏:
私は,いわゆる「昔のゲームが面白い」ことの理由の1つは,そうやって作られていたからだと思っていて。
だから,面白いゲームを作ろうと思ったら,ただマネるのではなく,マネるにしても「なぜこの仕様なのか?」をしっかり考える必要があるだろうと,そういう話をよくしています。仕様の理由をできるだけ深く掘り下げ,できればゼロからもう一度考え直してみるといったようなことですね。
そうすると,最終的にマネたとしても,色々な理解と発見を伴うので。
4Gamer:
なるほど……。
宮崎氏:
実際「Demon's Souls」も「DARK SOULS」も,ゲームデザインはかなりクラシックなアクションRPGですよね。でも,それは何も考えずに昔のゲームデザイン,文法を踏襲したということではないんです。我々なりにクラシックなゲームを分解し,理解しようと試みた結果であって,例えばその中から,先ほど話にでた「剣の両手持ち」というような部分が生まれたりもしています。
4Gamer:
そこはどんな仕事にも通じますよね。意図を持って取り組まないと,成功しても失敗しても理由が分からない。だから,次に繋がらない。
宮崎氏:
そう思います。
でも,面白いゲームを作る,作り続けるのって,本当に難しいと感じます。私なんかは,まだ経験も浅く,関わったゲームの数も少ないですが,ゲーム業界で黎明期から活躍して,ずっと面白いゲームを作っておられる方々,宮本 茂さんとか,堀井雄二さんとか,ぱっと思いつくだけで何人もいらっしゃいますが,そうした方々は本当に凄いなあと。
一体何がどうなっているのか,今の私には想像も及びません。
4Gamer:
ドラゴンクエストにおける「宿屋」なんかも,非常に面白い仕様ですよね。HPを回復させる方法なら,例えば薬を塗るであるとか,病院に行くって選択肢もある中で,なんで「泊まる」という選択肢を選んだのか。
宮崎氏:
あの「宿屋」は,すごくうまい仕組みですよね。「寝る」という概念があることで,画面が暗くなって音が鳴って,一呼吸おくことができて,それによってゲーム中のパラメータだけではなく,プレイヤーもなんとなくリフレッシュできる。
4Gamer:
ええ。
宮崎氏:
おそらく,あれが「宿屋」でなくて,ずっと画面が表示されているようなものだったら,プレイ感覚はかなり違ってくるんだろうなあと。
4Gamer:
ちょっとした演出ですけど,そういう配慮って,「プレイヤーにどう遊んでほしいのか」という根っこの部分を考えていないと出てこないとは思うんです。*2
「デモンズソウル」という名作が如何にして作られたのか、非常に分かり易く重要な証言だが、ここで語られていることはガングリの根本にも通じるのではないかと思う。宮崎氏の言葉を借りるならば、ガングリは宮崎氏の言うところの「何となく採用」が非常に少ないゲームだと言うことが出来ると思う。
それは先に述べた補給ヘリや、暗視装置からズーム機能へと至る仕様の変遷にも見て取れる。ガングリはそれらの仕様を残しつつ膨れ上がるのではなく、常にあらゆる仕様が目指すコンセプトに沿って合理的に取捨選択されていく。故にガングリは奥深い戦略性を持ちつつも、その操作系やレスポンスは至ってシンプルかつストレスフリーなものになっている。
或いは、インタビュー後半のドラクエにおける宿屋の工夫への指摘は、丁度スタートボタンに戦況図が配されている工夫に通ずるものがあると思う。ドラクエの宿屋が画面の暗転によってプレイヤーの気持ちをリフレッシュさせるのに対し、ガングリの戦況図はプレイヤーの気持ちを離させない。その狙うところは真逆だが、その根本にある発想には通ずるものを感じる。
こうした宮崎氏の発言とガングリフォンシリーズのディレクターである故・宮路武氏の発言を比べると、実はその根本においてかなり似通った信条を持っていたのではないかと思うところが多い。
それは例えば、操作性に関する二人の言葉にもそれは現れている。まずは宮崎氏の発言を見てみよう。
宮崎氏:
ただ,死が前提のゲームだからこそ,注意した部分も多くありました。死んでしまったときにプレイヤーが単純に不快になっては駄目ですので。死んでしまったことは,「あくまで自分のせい」としてプレイヤーに受け取ってもらわなくてはいけません。
4Gamer:
死んだときにプレイヤーがやる気を失ってしまっては,それこそ意味がないですもんね。
(中略)
宮崎氏:
学習することが気持ちよくなるようなシステムにしたいとは考えていました。例えば敵の配置が固定になっているのも,死んで覚えることで達成感を感じられるようにと配慮したゲームデザインの結果です。つまり,仮に死んでソウルを全部なくしてしまっても(パラメータ的には成長できない),プレイヤー自身が敵の配置を覚えたりすることで,もう一度挑戦したときにはクリアできるようになるということです。
4Gamer:
ああ,なるほど。
宮崎氏:
あと配慮した点という意味では,操作性についてもかなり拘りました。操作のミスや,操作方法が難しくて死んでしまうと,やはりイラっとしますし,やる気がなくなってしまうと思います。私としては,プレイヤーの思考をどうしても「自分のやり方が悪かったせいだ。やり方を変えて再挑戦しよう」という方向にもっていきたかった。
4Gamer:
理解できます。
宮崎氏:
そのような考えから,操作性に関しては,内部でも「もう少し重い感じにしても良いんじゃないか」という意見もあったのですが,そこはキビキビとボタンの反応が良いような感覚に調整しました。操作レスポンスの良さというのも,死んだときにストレスを与えない,細かい工夫の一つだと思います。*3
「マゾゲー」、「死にゲー」と言われその難易度の高さばかりがクローズアップされることの多い「Demons` Souls」だが、実は極力プレイヤーがストレスを感じないような配慮もなされていて、それは特に快適な操作性へのこだわりとなって現れていたわけだ。
一方、この操作性への言及は宮路氏にもあって、宮路氏の訃報に際してツイートされた小林治氏のツイートには以下のようなエピソードが綴られている。
@shigema そうですよね、まだ若いですよね。僕より下ですよね。武さんは色んなわがまま(村に一つ動物を置きたい、とか近づくと泣いて欲しいとか)を聞いてくれました。操作性の事も熱く語られました。気持ちよくないと駄目だ、みたいな事です。
— 小林治 (@osamukoba) 2011年8月1日
この「気持ちよくないと駄目だ」という言葉を念頭にシリーズ作品を改めてプレイしてみると、確かにどの作品も操作性が良好なことに気付く。それは初代の頃からそうで、当時はまだ珍しかった3D空間を動き回るFPSというジャンルにも関わらず本作が人気を博したのは、この快適な操作性のお陰もあったと思う。また、ファンからは不人気のブレイズですら操作性に関しての不満を聞いたことはないことを考えると、ガングリフォンシリーズはその操作性に関して相当に配慮していることが窺え、宮崎氏の制作スタイルと共通するものがある。
また、操作性以外の部分についてに関しても両者の作るゲームは似通っている。「Demon`s souls」同様、ガングリも敵の配置は固定の覚えゲーで(初代以降は一部ランダムなものの、基本的に固定)、実は「プレイヤーの学習」に最も重きを置いたゲームデザインがなされている。
これはどの作品でも同じで、最初は失敗したミッションでも何度もプレイする内に敵の動きや増援の方向が分かり、リトライの際に対処しやすくなっていくことにも現れている。また、一度クリアしたステージでも後から再びプレイするとプレイが効率化され、不思議と良い成績を得られるようになっていたりもする。
最初は前進も後進もままならなかったのに、ミッションをこなしていく内に動きが洗練され、ジャンプやローラーダッシュ、偏差射撃や砲塔回転などの高等技術まで使いこなしてしまう不思議な驚き。これこそガングリの醍醐味と言って良いだろう。
シリーズ作品のいずれも他のゲームに比べれば少ないステージ数ながら(初代やⅡでもシナリオに限ると8ステージ、ブレイズに至っては僅か6である)、プレイヤーに大きな不満を残さないのはこのリプレイ性の高さとそれに耐える作品の奥深さ故である。
こうした点をつぶさに見ていくと、ソウルシリーズとガングリは全く異なるジャンルのゲームではあるものの、その根本においては非常に似たゲームだと言えはしないだろうか。そのコンセプト、そのゲームデザイン、その方向性、その目指すレベル、いずれも上質な本当の面白いゲームであり、どちらもこの上ない「達成感」を与えてくれる最高のゲームである。
しかし、ここで一つの疑問が浮かび上がる。それは「ブレイズは本当に意識的なゲームだったのか?」という問題だ。
ご存じのようにガングリフォンシリーズの三作目となるブレイズはそれまでのシリーズから大きく変化した作品である。それまで作品の代名詞ともなっていた補給ヘリが廃止され、戦場に落ちているアイテムを取ることで即座に体力や弾薬が回復する仕組みに切り替わったことは特に大きな変化だったと言えるが、それによってシリーズが売りにしてきたリアルな戦場の雰囲気が台無しになり、多くのファンの不興を買ったことは改めて説明するまでもないだろう。
この演出的にはどう見ても後退としか思えない方式を採用したブレイズは、本当に意識的なゲームだと言えるのだろうか?そんな疑問を思い浮かべる人がいたとしたら、それは至極真っ当な意見だと言うしかない。
或いは、ブレイズの出撃シーンがそれまでのようなコックピット内のOSの起動画面から始まるのではなく、工場か基地のような場所から出撃する自機を眺める三人称視点に切り替わっていることは、機体のモデリングを見せたいという以上の意図があったのか?
また或いは、初代やⅡではマップを呼び出すボタンでもあったスタートボタンが、ブレイズでは単なるポーズ画面になってしまっているのはゲームに何らかの寄与をしているのか?
正直なところ、ブレイズ党を自認する筆者ですらこれらの箇所には首を傾げざるを得ない部分が多い。ここでは特に出撃シーンに文句を言いたいのだが、OSの起動画面から始まる初代の出撃シーンはプレイヤーの没入感を高める上で大きな役割を果たしていたと考えられる。暗く狭いHIGH‐MACSのコックピットの中で徐々に高まっていく焦燥感、緊張感、そうした雰囲気を高めていく手つきは明らかに初代の出撃シーンの方が上であり、FPSというジャンルの中で視点を統一するという意味でも整合性が取れていた。
初代においてプレイヤーがその一人称視点から解放されるのは任務を達成した時か、失敗した時かのいずれかで、どちらの場合でもプレイヤーの手から操作が離れた瞬間に第三者視点になり、FPS視点から解放される。重苦しいコックピット内部から離れて初めて眺める自機の姿は勝利に浸る勇姿か、それとも敵の猛攻に膝を屈した姿か。そのいずれにせよ、これは非常に上手い演出だったと思う。
しかし、これが最初の出撃シーンから第三者視点になってしまうとどうか?
機体の外観を把握し、細かい部分まで描かれるようになったモデリングを堪能出来る利点こそあれど、「HIGH‐MACSのコックピットに乗っている」という没入感やこれから起こるであろう戦闘への緊張感、焦燥感はかなり減じられてしまったように感じる。
設定上は基地の位置と実際に出撃するステージの間に相当な距離があると予測されることも、没入感を阻害する部分だと思う。ケープカナベラルなどの一部のステージを見れば分かるように、基地から出撃した自機が次の瞬間には輸送機から空挺降下していくのでは、シーンとしての連続性が失われてしまっていて没入感が台無しだ。この点で言うと、コックピット画面から始まる初代のハリコフやⅡのタンチェンのような空挺降下シーンには違和感がない。
或いは、スタートボタンが単なるポーズにしかなっていないのも大きな問題だと思う。画面に「PAUSE」の文字が出た瞬間、プレイヤーは今自分がプレイしているのが単なるテレビゲームに過ぎず、HIGH‐MACSを操るパイロットという気分はどこかへ吹き飛んでしまう。この辺りの演出も、マップや戦況図という形でスタートボタンを単なるポーズ画面にしなかった初代やⅡの演出の方が遥かによく考えられていた部分だ。
このような何の変哲もないポーズ画面が採用された理由は定かではないが、少なくともHIGH‐MACSのコックピットにいる感覚が薄れているのは確かであり、偏執的とも言える手つきでゲームっぽさを排除していった初代に比べると、ゲーム的にも演出的にも後退したと感じられるのは否めない事実だと思う。
実際、アイテム制の表現を見れば分かるように、ブレイズはこれまでのシリーズが大切にしてきたリアリティとゲームシステムの整合性を取る努力を放棄していると感じられる部分が多々あって、「ゲームっぽくなった」という批判も理由のないことではない。
ではブレイズは初代やⅡに比べて自覚的な部分が減り、適当に作られたゲームなのか?
このブログを読んできた読者はもうお分かりだろうが、結論から言うと筆者は必ずしもそうではないと思う。
以前のブレイズの記事でも触れたように、ブレイズはそのゲームライクな作りとは裏腹に初代ガングリフォンの企画コンセプトである「隠れながら撃つ感覚」を実現した正統派的な側面も持ち合わせており、実はシリーズの中で最も初期コンセプトに近い作品でもある。
PS2のマシンパワーで立体感を高めたステージや部位判定の導入、レーダーと補給ヘリの廃止、それらの要素が有機的に結びつくことで一つのコンセプトを形成している点はブレイズの間違いない長所であり、この作品が一つの明確な意思によって作られていることを何よりも物語る。
初代やⅡに比べると多少の瑕疵があるのは事実だが、ブレイズもまた相当に自覚的な作りの作品であることに違いはなく、それは随所に読み取れる。そしてそのシステムには実はソウルシリーズと共通する部分が多いのではないかと思ったりする。
それは例えばブレイズで一新されたヒットポイントゲージである。前述したように、ガングリにおけるヒットポイントの概念は初代においてはレーダーの枠の色の変化で表現される斬新なも仕様を採用していたが、Ⅱではより一般的なゲージ制が採用されてより視覚的に分かり易いものになった。これは恐らく、初代の仕様だと自機の状態が直感的に分かり辛いというユーザーの意見が反映された結果ではないかと思うが、ブレイズでも引き続きこのゲージが採用された。
もっとも、ブレイズのヒットポイントの概念はⅡのそれとは全く異なるものだ。Ⅱのヒットポイントゲージは敵の攻撃を受けるとダメージに応じてゲージ内の体力を示す目盛りが減り、完全になくなるとゲームオーバーという、他のジャンルのゲームでも採用されているような分かり易いものだった。
しかし、ブレイズのヒットポイントゲージのシステムは少々特殊だ。敵の攻撃を受けるとダメージに応じて目盛りが減っていくのはⅡと共通しているのだが、ブレイズでは敵のダメージを受けるとダメージに応じた目盛りが点滅し、その点滅した部分が徐々に時間を掛けて低下していくという、やや複雑な形式になっている。
これはエジプトのエレファントの攻撃を受けるとより分かり易い。ブレイズに登場する敵の中でも最大に近い火力を誇るエレファントの主砲を受けると、16式のヒットポイントは体感で七割近く持っていかれるのだが、その場合でもまずヒットポイントゲージの七割に当たる目盛りが点滅し、そこから時間を掛けて徐々に低下していくという仕様になっている。もし低下している最中にステージ上に落ちたジェリカンを取得すれば点滅が消えて低下は止まり、その時点で残った目盛りがその時点でのヒットポイントとなる。
このような複雑な仕様を導入した意図については以前の記事でも少し触れたが、恐らくヒットポイントの見なし量を多くすることでプレイヤーを死に難くする配慮であったと思われる。
知っての通り、ブレイズの最高難度となるHELLモードのバランスは極悪で、それこそエレファントの主砲一発で即死もあり得る厳しい世界である。恐らく、ブレイズのレベルデザインはこのHELLモードを軸に調整されており、敵の主砲一発で即死すようなリアルでハードな戦場を再現することがブレイズの一つのテーマだったのだと考えられる。
しかし、では敵の主砲一発で即死するゲームは本当に面白いゲームなのかというと、これはやや疑問が残るところだ。初代やⅡも相応に難しいゲームであり、特に初代の最高難度ともなると敵のヘリのRPを受けて即死という場面も頻発することはあったが、交戦距離が増して敵の攻撃が四方八方から飛んでくるブレイズの戦場でそれをやったらただのストレスゲーになってしまう可能性は強かった。
一発の被弾で戦況がガラっと変わってしまう戦場の緊迫感を表現しつつ、極力プレイヤーがストレスを感じないようなゲームデザインにする。この相反する二つの要求を実現するための方策がブレイズのアイテム制であり、複雑なヒットポイントシステムだったと考えると、割と良く練られたシステムであり、開発側が自覚的にシステムを構築していたことを示す証左になっていると思う。
ここで筆者は、このヒットポイントシステムに良く似たシステムを採用したとある作品を思い出す。それは前述の「Demons` souls」の後継作に当たる「Blood bone」である。
「Blood bone」で採用されているヒットポイントシステムはブレイズのそれと良く似ていて、敵の強力な攻撃を食らっても即死はせず、徐々にダメージを受けた分のHPが低下していき、HPが0になる前に回復アイテムである輸血液を打てば低下が止まる点などそっくりと言っても良いほどだ。
緊急に回復する手段自体は従来のソウルシリーズにもあったが、「Blood bone」ではより素早く、歩行中でも行えるようになったことで回復中の隙がほぼなくなった。また、ダメージを受けても一定時間内に敵に攻撃を仕掛ければ与ダメに応じてHPが回復するリゲインシステムが導入され、プレイヤーが死に難くなるような数々の工夫が施された。
ロボットモノのブレイズでは流石にリゲインシステムは採用出来ないが、従来のヘリ制からアイテム制に変更することで劇的に補給速度を早め、任意のタイミングで補給可能にしたことで旧作よりも補給中の隙をなくしたことなども「Blood bone」と良く似ている点で、どちらもプレイヤーの回復手段の幅を広げて死に難くする工夫を施しているという点で共通するものがあると思う。
両者が似たようなシステムを採用した狙いは恐らく同じで、共により激しく、よりスピーディーな戦闘を実現しようという意図に基づいていると思う。特にブラボは宮崎氏自身がそれを明言していて、従来のソウルシリーズで有効だった「盾」を廃することでプレイヤーから防御の手段を奪うなど、その方向性をよりハッキリと打ち出している。
実際、両者共に従来のシリーズよりも敵の攻撃は苛烈で、激しい。一度に登場する敵の数も多く、あっけなく死んでしまう場面もこれまで以上に増えた。この積極的な戦闘システムを実現する為のシステムがブラボのリゲインシステムであり、ブレイズのアイテム制であり、両者が採用したヒットポイントシステムの真の狙いではなかったかと思う。
実際、ブレイズと「Blood bone」のベースとなるコンセプトは良く似ていて、それはガングリの初期コンセプトである「隠れながら撃つ感覚」という言葉と、「Blood bone」のコンセプトである「死闘感」という言葉の近似にもよく現れている。以前の記事でも少し触れたが、この言葉の意味するところは実は同じで、「生きるか死ぬか」という極限の戦闘を演出することにこそあった。
この奇妙な類似は両作品が共に従来のハードから新ハードへと移行したシリーズの一作目だということにも関連があると思う。ハード性能の向上に合わせて一度に登場させられる敵の数(or表示出来る数)や利用出来る遮蔽物などが増えたことにより、より激しい戦闘を実現することが可能になったことでシステムもそれに合わせたものに変更された結果だと思う。
これはゲームシステムを根本から変えるかなり重要な改変で、これを実現させる為にはプレイヤー側が出来るだけ死に難いシステムにしなければ成立しない。もしブラボにリゲインシステムがなかったら盾がないだけの劣化ソウルとなり、積極的な戦闘どころかただのストレス過多なゲームになってしまう可能性がある。
これはブレイズも同じで、回復に時間の掛かる補給ヘリのままだと一度に登場させられる敵の数や攻撃頻度も抑えなくてはならないし、ゲームスピードも落ちる可能性がある。自由に走り回る楽しさや多様な攻略ルートを試行錯誤する楽しさも制限され、せっかく広大化したマップも活かせなくなってしまう。
ガングリの面白さの一端は良く練られた敵増援のタイミングにあるが、ブレイズでは登場する敵の数が一際多く、増援タイミングも早まっている為に切れ目のない戦闘が体験出来る。この点では旧作から正統に進化していて、アイテム制の利点が上手く働いている部分だと思う。
アイテム制は演出的に問題があったのは確かだが、従来のシリーズの枠を外し、ゲームとしての内実の進化を促している面もあって、そういう意味では意外と本質的な部分を抑えた改変だったわけだ。
勿論、従来のヘリ制でも少し改良すれば採用することも出来たかも知れない。ヘリ制特有の降下ポイントの確保といった戦略性はもっと深堀する余地があったと思うし、演出的にも説得力が増したのは勿論だ。ただ、ブレイズのシステムを支えるにはアイテム制でなければならなかったのだろう。
しかし、一つ気になるのはあの徐々に減っていくヒットポイントゲージは何を表しているのかということだ。
「Blood bone」のゲージは「体力というより闘志のようなもの」と宮崎氏自らが解説しているので徐々に減っていくのもまだ理解出来るが、ブレイズで徐々に低下していくあのゲージはどういった概念なのか?装甲に穴が開いてオイルが漏れていくことを表現しているのだろうか?だからジェリカン?いや、そんなこと言ったらⅡのゲージだって初代の色で変化していく表現だって何を表しているのかいまいち分からないところではあるが、その辺りの設定とシステムの整合性を取る努力がなされていないのはやはりブレイズが「ゲームっぽくなった」と批判されても仕方のない点であろう。
このように、ブレイズは大まかなコンセプトとしてはかなり初期のコンセプトに自覚的に作られた意識的な作品だと思える。しかし、こうした細かい部分の設定や仕様にはやや甘さが残る部分も見え隠れし、ゲームライクな作風に割り切ったにしてもどこか意識が曖昧な印象を受けるのも事実だ。前回の記事でも書いたが、ブレイズはフィジカル的には大幅な進化を遂げたのに、その魂はどこかに置き忘れてきたようで、肉体と精神がどこか分離しているように見える。
この辺りがブレイズの評価がもう一つ伸びない理由なのだろう。この作品の真の姿を解き明かすには未だ謎の多いその成立過程を探るしかないのだろうが、それが明らかになるのはまだ先のことになりそうだ。
さて、長々とソウルシリーズとガングリの比較を行ってきたが、如何だっただろうか?ソウルシリーズとガングリ、二つの作品を結びつけて語るのは「こじつけだ」と思う向きもあるかも知れないが、筆者はそう思わない。そのことは宮崎氏のインタビューを読むと良く分かる。
宮崎氏:
あとはゲームをプレイするなかで冒険心を掻き立てられるとか,発見していくわくわく感,あるいは達成感みたいなものをプレイヤーが感じられるゲームを作りたいよねという意識は,企画当初から梶井さんをはじめ,開発スタッフ内で共有できていた部分です。そこは開発中でも一貫してブレていなかった要素の一つですね。
梶井氏:
ゲームをする楽しさ……つまりゲームで得られる快感というのは,クリアしたあとのご褒美だとか,そういうものではないという意識が,私や宮崎さんのなかにありました。プレイを続けながら徐々にプレイヤー自身が上達していく,その過程こそが楽しいんだ! という考えを共有していました。そういうゲームは最近では少なくなってしまったので,今そのような作品を作ればきっとニーズがあるはずだという気持ちもありました。*4
まだ操作も覚束ないその手でボーレタリアの王城に挑み、数々の困難の末にファランクスを初めて倒した時。或いは、闇夜の落ちたヤーナムの市街を駆け抜け、獣に堕した神父を激闘の末に討ち果たした時。はたまた、夕陽に染まるアノールロンドの通路を突破し、奥に待つ二体の騎士を倒した時、筆者はこの上ない「達成感」を感じる。
それはガングリも同様だ。
夕焼け空の連雲港で迫りくる米海兵隊の猛攻を跳ね除け、味方のC‐17輸送機が西の空に消えていく姿を見送った時、筆者はいつも得も言われぬ高揚感を覚える。それは困難な任務を果たした喜びであり、重責から放たれた解放感であり、聳え立つ高い壁を乗り越えた「達成感」である。それは本当に面白いゲームでしか味わえない、極上の感覚だ。
ソウルシリーズとガングリは共に難しいゲームだが、決して難しいだけのゲームではない。最初はすぐに死んでしまうが、何度もチャレンジする内に突破口が見えてくる。過保護な親のように手取り足取り教えてくれることはないし、例え失敗したとしても手を貸して起こしてくれることもないが、ヒントくらいは出してくれる。まるで厳しく、しかし実直な父親のように。
そこかしこに残された血痕が、砂丘に上がる噴煙が、自分の身体に叩き込まれるいくつもの失敗の体験が、何よりも攻略のヒントになる。プレイヤーが注意深く観察して学び続ける限り、彼の前には常に道が開けていく。それは夕陽に染まる連雲港からボーレタリアを通り、遥かアノールロンドへと通じる道なのである。
脚注
*1:支援砲撃で撃破した敵は撃破数にカウントされないため、ハイスコアを狙う際には使用しないのが正解になるという矛盾があった上に、そもそも移動する敵に命中させるのは中々難しい。裏技で第一世代型のAWGSや戦車を使ってチーナン辺りで戦う時は重宝するらしいが、逆に言えばそれぐらいしか活用法がなかったとも言える。
*2:だけどやっぱりゲームが作りたくて――「DARK SOULS」の宮崎英高氏に聞いたフロム・ソフトウェアという会社のあり方 4Gamer.net 2012年2月25日インタビュー記事
*3:なぜいまマゾゲーなの?ゲーマーの間で評判の即死ゲー「Demons` Souls」(デモンズソウル)開発者インタビュー 4Gamer.net 2009年3月19日
*4:なぜいまマゾゲーなの?ゲーマーの間で評判の即死ゲー「Demons` Souls」(デモンズソウル)開発者インタビュー 4Gamer.net 2009年3月19日