ガングリフォン・ムック(仮)

名作ゲーム、ガングリフォンシリーズについて考察するブログです。他のゲームも時々語ります。更新不定期。

ブレイズはもうすぐ二十歳になる

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先日の拙記事、「SENSE of GUNGRIFFON」についてN氏からツイッター上で重要な指摘を受けた。作品の考察を進める上で非常に大事なことだなと思ったので、勝手ながらツイートを引用させて頂き、その上で筆者の考えを述べ、N氏への回答としたいと思う。

 

まず、N氏のツイートを引用させて頂く。筆者が特に大事だと思った部分に関しては太字で強調させて頂いたが、これは引用元のツイートにはないことをお断りしておく。

 

N氏の指摘

 

GGBを通じてガングリフォンの面白さを考え続けている著者の最新記事、今回も非常にうなずける。しかし後半は首肯しがたい。と言うか、「本質」をキーワードに論を進めるのは、端的に言って筋が悪いのではないか

 

”Ⅱからブレイズに至る過程で「ミリタリーテイスト」が失われ、それがファンからの強い反発にあったのは事実だが、テイストはどこまで行ってもテイストであって、「本質」とは異なるものだ。”と記事では主張する。が、別にテイストが「本質」になったってよいと思う。これは「本質」の定義の問題だ

 

記事での定義は、本質=”ある概念なり作品なりの中にある、それがそれであるために必須のもののこと”。そして、GG1・2・Bを通して「本質」を抽出した著者は、「GGBでも本質は失われていない」とする。この分析自体は、筋が通っている

 

ところが、96年当時にGG1をプレイして惚れ込んだ人間には、この「本質」は見抜きようがなかった。GG2もGGBもこの世にはなかったのだから当たり前だ。すると当然ながら、ファンは思い思いのポイントでGG1を好きになる。それが開発者の意図と合致していたこともあったろうし、そうでないこともあったろう

 

そして、GG1ファンが強く惹かれていた(且つ、他のゲームにあまり見られなかった)そのポイントが、そのファンにとっての「GGらしさ」として受け取られていた、ということはほぼ間違いないように感じるそしてそれが演出であり雰囲気であり設定であったのは、種々のレビューから明らかではないか

 

 しとり氏のGGシリーズに関する分析は総じて極めて説得的と言える。GG1時点でのファンと開発者の関係性を、その分析に照らして言い表すならば、ファンはGG1を「誤読」していた、ということになるかもしれない。そしてそれは私も事実起きていたことだと思っている

 

ブログでも言及があった気がするが、ラフ段階でのAWGSのデザインは最終製品版と比べて割とアニメチックだ。実際に世に現れたGG1は「ありえたGG1の中で最もリアル寄り・硬派寄りに振り切った世界観」だった可能性は、かなりある、と見ている。だとすると、やはりすれ違いが起きていたことになる

 

GG2・Bとシリーズが続いていった中で、ファンが各々GG1の体験から築き上げた堅固な「ガングリフォン観」をアップデートせず、「軟派になった」「ライトユーザに媚びた」、言ってしまえば「ぼくの考えたさいきょうのガングリフォンが出なかった」と不平したのは怠慢だ、と言われれば、そうかもしれない

 

しかしながら、「補給ヘリがないと成立しないガングリフォン」は、やはりあったのだ、と言わせて欲しい。それほどまでに、GG1の演出、雰囲気、設定の衝撃は大きく、ファンの心に突き刺さったのだ。テクストをどう読もうと読者の勝手!という類いの主張をしているつもりはない

 

作品が何をやろうとしたかを理解することが必要だ、という著者の主張には大いに賛同する。GGBがやりたかったであろうことも、著者の考究のおかげで相当程度理解が深まったように感じている。まだ気のせいかもしれんけど……

 

それでも、その理解に立った上でもなお、「それは私たちが惚れたものではなかった」「それはGG1で見えた景色の向こうに広がっていた(ように思えた)世界とは違った」という肝腎のところは、もう変わらないような気がしている

 

ガングリフォンコンプリートファイル』のラフデザイン集から、実際に世に現れたのが「ありえたGG1の中で最もリアル寄り・硬派寄りに振り切った世界観」だった可能性を推論したのは私の独創ではなく、Kater-Kurz氏という非常な論客だったことは記しておく

 

ガングリフォンコンプリートファイル』に載っていたHIGH-MACSのラフデザインってこんなのでした。これはこれで面白いですが、テイストは製品版とだいぶ違う

 

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*引用中の画像はいずれもN氏のツイートに添付されていたものをお借りさせて頂いた。

 

 

 

以上がN氏のツイートである。と同時に、これは多くの初代ファンの考えや気持ちを代弁するものでもあると捉えても構わないように思う。今回、このN氏のツイートを記事中に引用したのは例によって反論のためというよりも、この意見をこのブログに掲載する意味があると思ったからである。

 

ご存じのようにこのブログは『ブレイズ』を中心にシリーズの考察を進めており、どうしても『ブレイズ』中心の見方になりがちだ(加えて、飛躍気味かつ暴走気味な筆者の偏った見方にもなりがちだ)。シリーズにおける『ブレイズ』の微妙な評価もあって他にそんなブログは余りない気がするので、そこがこのブログの価値と言えば価値なのだと思うが、だからこそ、初代を評価する人の意見を掲載することに意味があると思う。

 

だから、ここで筆者とN氏のどちらが正しい、間違っているだなどということは言わない。筆者の前回の記事とN氏の指摘とを読み比べて、読者がそれぞれ考えて頂ければそれで良いのかなと思っている。

 

ただ、やはり指摘されたいくつかの部分に関してはきちんと答える必要があると思うので、僭越ながらポイントを絞って五つだけ回答させて頂き(多いな)、また、前回の記事の補足とさせて頂きたいと思う。 

 

 

 

① 「本質」をキーワードに論を進めるのは、端的に言って筋が悪いのではないか

 これはN氏に指摘されて最も耳が痛い部分であった。N氏にもツイート上で語ったが、「本質」という言葉を軽々しく使って論を進めてしまったのは勇み足だったかも知れない。仮に筆者の言うものが「本質」であったとしても、N氏の言うように「96年当時にGG1をプレイして惚れ込んだ人間には、この『本質』は見抜きようがなかった」というのはその通りであり、その論の進め方が「筋が悪い」と指摘されたことは重いことだと思っている。この点についてはN氏の指摘を真摯に受け止めたい。

 

 

 

 別にテイストが「本質」になったってよいと思う。これは「本質」の定義の問題だ

これは上記のことと関連するが、「本質」という言葉をどう定義するのかというのは難しい問題だ。正直なところ、「テイストが『本質』になったってよいと思う」という考え方についてはあまり深く考えたことがなかったのだが、「言われてみればそうだよな」という気はする。

 

例えば、筆者が以前から気になっていた作品に『Dear Ester』という作品があるが、そのゲーム内容は雰囲気の良い怪しげな島を歩き回るだけで戦闘などは一切ないという、およそシンプルなものだ。しかし、確かにその雰囲気は魅力的であり、筆者にとっても「やってみたい」と思わせる何かがあった。この作品からその「雰囲気」を取り去ってしまって後に何が残るのかと問われると、「うーん」となりそうだ(いや、まだやってないから分からないんだけども)。

 

この作品が一般的な意味での「ゲーム」に当てはまるかどうかはこれまた分からないところだが、この辺りのことを言い出すと「ゲーム」の定義なども含めてまたかなりややこしいことになってくる。それは「本質」という言葉を使った議論も同様で、やはりこれは筆者の勇み足だっただろう。

 

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『Dear Ester』のワンカット。プレイヤーは主人公の男性(?)を操作しながら、海に閉ざされた島の内部を散策する。怪物が出てくるわけでもなく、戦闘があるわけでもなく、ただ島を彷徨うだけのゲーム内容らしいが、そのどこか暗い風景には何とも言えぬ魅力がある。

 

ただ、それでも筆者はやはり一足飛びに「ガングリフォンらしさ」なるものを「ミリタリーテイスト」や「雰囲気」に求めてしまうことには警戒感を覚えてしまう、というのが正直なところだ。

 

というのも、それは筆者自身がミリタリーマニアではないにも関わらず、『ガングリフォン』という作品に拘泥してきたことと関係がある。筆者のミリタリーの素養というのは素人も良い所で、この辺りの知識に関しては多分、N氏やM氏、R氏をはじめ、初代ファンの方々の足元にも及ばないだろう。

 

流石に何年もガングリをやってきたから無知というほどではないと思うし、勿論ミリタリー要素が嫌いなわけではないのだが、「ミリタリーマニアか?」と問われれば「はて?」と思ってしまう。世の中には筆者よりもその方面に詳しく、情熱を傾けている方が沢山おられるはずだ。

 

しかし、だからこそ見えるものがあると筆者は思っている。ミリタリーマニアでもなく、ミリタリーテイストにそれほど入れ込んでいるわけでもないからこそ、逆に見えるものがあると思っている。それがこのブログでも度々考察してきた「レーダーの廃止問題」であったり、「隠れながら撃つ感覚」というコンセプト部分へのアプローチだったと思う。

 

「ミリタリーテイスト」が「ガングリフォンらしさ」の多くを占めるかも知れないにせよ、それすらも『ガングリフォン』という作品の数ある魅力の内の一つに過ぎないのではないかと筆者は今尚感じている。

 

N氏がそのツイートで「ファンは思い思いのポイントでGG1を好きになる」と語るように、筆者もまた、「ミリタリーテイスト」とはまた別のポイントで『ガングリフォン』という作品を好きになったのだと思う。それが何なのかは、これまた色々あるのだろうが。

 

恐らく、「ミリタリーテイスト」という言葉に「ガングリフォンらしさ」を求めて拘泥してしまうと、作品の裏側にある「システム」や大元の「コンセプト」といった部分が見えにくくなるように感じる。そして『ブレイズ』における仕様変更が理解出来なくなる。こうしたことへの警戒感が、或いは筆者に「ミリタリーテイスト」に「ガングリフォンらしさ」を求めることを躊躇わせるのかも知れない。

 

それは例えば、このブログでも度々扱って来た『ブレイズ』におけるレーダー廃止問題だ。初代や『Ⅱ』にはあったレーダー画面が『ブレイズ』からなくなり、質量センサーに切り替わったことは、従来、「索敵に重きを置いたゲームデザインの結果」と説明されてきたし、それ自体は間違いではない。

 

ただ、それが可能になったのはPS2というハードのマシンパワーによって視認距離(或いはオブジェクトの表示距離)が伸び、遠くのオブジェクトや風景まで表示出来るようになったという技術的要因が大きかったと思う。逆に考えると、マシンパワーに劣るセガサターンをそのプラットフォームとした初代や『Ⅱ』ではそれは不可能だったのであり、レーダーはその短い視認距離を補うために必要だったのではないかという見方も出来る。

 

つまり、レーダーは「ミリタリーテイスト」の結果としてあるのではなく、むしろゲームを成立させるために「必要だった」のだとも言える。だから、技術の進歩によって視認距離が伸びれば、「レーダー」は不要になったのである。*1

 

少なくとも、開発側にとって「レーダー」は決して外せないものではなかったし、事実、外せるものだったということは、開発側の姿勢の一端を窺わせるものだと思う。N氏やR氏がそうではなかったことは重々承知しているが、「ミリタリー」や「演出」といった要素に比重を置いて作品を眺めてしまうと、こうした技術的要因や開発側の意図を汲み取りにくくなるのである(*このレーダー部分の記述は後日、加筆しました)。

 

勿論、これはあくまでも筆者の立場を説明するものに過ぎないが、こうしたこともあり、筆者は前回の記事で「ガングリフォンらしさ」を本作の企画段階ですでに提示されていたコンセプトである「隠れながら撃つ感覚」や、或いは前回の記事で指摘したような「三つの感覚」といったコンセプトの部分に求めたわけだ。

 

これらの点に関してはN氏の指摘を受けてからまた色々と考えてみたのだが、それでも尚、個人的にはミリタリーテイストに「ガングリフォンらしさ」の根拠を求めるのは少々危ういという思いが拭えなかった。それは確かに「ガングリフォンらしさ」の一部ではあるかも知れないが、全てではないように思える。もしかしたら、これは筆者の自己規制の問題なのかも知れないが。

 

ただ、いずれにせよN氏の言うように「本質」という言葉を使った論の進め方は些か拙いやり方で、逆に「本質」から遠ざかる結果になったのは明らかに筆者の落ち度である。この点へのN氏の指摘も真摯に受け止めたい。

 

 

 

 ③ GG1時点でのファンと開発者の関係性を、その分析に照らして言い表すならば、ファンはGG1を「誤読」していた、ということになるかもしれない。

ゲームに限らず、クリエイターとファンとの関係というのは基本的に誤解で成り立っていると思う。同じ方向を向いていると思っていても、違ったということは往々にして起こる。というか、全てのコミュニケーションは誤解で成り立っていると言ってしまったら悲観的に過ぎるか。

 

そしてそれは『ガングリフォン』という作品とファンの間、或いは、ゲームアーツというメーカーとファンの間でも起こったと思う。N氏が言うように、「すれ違い」はやはりあったはずだ。

 

ただ、そうした「すれ違い」が起きた過程には作品内部のそれとは別に、もう少し複雑な要因があったのではないかという気がしている。それは単にファンが「見落とした」とか、「誤読していた」ということとはまた別の、複数の要因である。

 

尚、これはN氏への回答からはかなりズレてしまうのでここでは書かないが、一応、下にその要因となったと筆者が考えるものをいくつか記す。

 

  1. 初代の開発段階における岡田厚利氏の存在感と影響力の強さ。
  2. 「売り上げを度外視してでも技術力を見せようとした」という初代特有の事情。
  3. にも関わらず、初代が思った以上に売れ、20万本のセールスを記録したこと。
  4. にも関わらず、『Ⅱ』は6万本近くまでセールスが落ち込んだこと。
  5. PS2という新しい市場に参入し、『ブレイズ』の販売元がカプコンとなったこと。
  6. シリーズのディレクターを務めた宮路氏が『ブレイズ』ではプロデューサーに回ったこと。

 

これ以外にも色々あるとは思うのだが、こうした作品を取り巻く内部的・外部的要因がシリーズの変遷、特に『ブレイズ』の形態に大きな影響を及ぼした可能性はあるかなと思っている。正直、アイテムボックスやイフェクトグッズといったアイデアは「カプコンぽいな」と昔から思っている。カプコンがねじ込んだということは流石にないと思うが、「カプコンに寄せた感」はあるかなと(根拠はないけど)。

 

この辺りはまだ筆者の推測に過ぎないので(いや、このブログに書かれていることはほぼ全部推測なんだけども)まとまってないのだが、いつか記事に出来ればいいなと思っている。

 

 

 

 ④しかしながら、「補給ヘリがないと成立しないガングリフォン」は、やはりあったのだ、と言わせて欲しい。それほどまでに、GG1の演出、雰囲気、設定の衝撃は大きく、ファンの心に突き刺さったのだ。テクストをどう読もうと読者の勝手!という類いの主張をしているつもりはない

これについては全くその通りだと思う。少々矛盾することを承知で言うならば、筆者自身は補給ヘリが「絶対に取り換えの効かない部分」であるとは今でも思っていないが、「『補給ヘリがないと成立しないガングリフォン』は、やはりあったのだ」というN氏の指摘には同意出来る。それはイフェクトグッズやアイテムボックスでは決して代行出来ないものであり、それが「テクストをどう読もうと読者の勝手!という類の主張」でないことも明らかだ。

 

そして誠に遺憾ながら、『ブレイズ』が他ならぬゲームアーツの手によってナンバリングタイトルを冠されなかった理由の一端もまた、その辺りにあったのではないかという気は多分ずっとしている。

 

ただ、筆者としては「補給ヘリは本質ではない」ということと、「補給ヘリがないと成立しないガングリフォンはあった」という主張は、決して両立しないものではないように感じられてしまう。

 

少なくとも、ここでN氏が使われている「『補給ヘリがないと成立しないガングリフォン』は、やはりあった」という言葉を借りるならば、「『補給ヘリがなくても成立したガングリフォン』も、またあった」と言えるのではないだろうか。例えそれが「(多くの)ファンの望んだガングリフォン」ではなかったとしても。

 

念のために書いておけば、これは「補給ヘリがダメ」で「アイテムボックスやイフェクトグッズが良かった」という主張ではないことは断っておく。 補給ヘリの廃止が攻略ルートの解放やプレイの幅の拡大といった部分に寄与し、新たな可能性を示したことには評価すべき部分もあったのではないかということだ。

 

こうしたゲーム部分の進化(と思わない方もいるかも知れないが)を「補給ヘリ」という補給形態が抑えつけていたかも知れない可能性はやはりあるわけで、別の補給形態を模索する試み自体は悪いことではなかったと思う。その結果がアイテムボックスやイフェクトグッズのやや後退したようにも感じられる表現や演出であったというのがアレであるが。

 

 

 

⑤それでも、その理解に立った上でもなお、「それは私たちが惚れたものではなかった」「それはGG1で見えた景色の向こうに広がっていた(ように思えた)世界とは違った」という肝腎のところは、もう変わらないような気がしている

恐らく、ここがN氏と筆者の立場の最も大きい違いかも知れない。

 

この言葉を見ると、N氏はやはり初代に軸足を置きつつ、『ブレイズ』やシリーズを見ているという印象がある(多分、間違ってはいないと思う)。逆に、筆者は『ブレイズ』に軸足を置きつつ、初代やシリーズを見ている。一応、筆者も初代からシリーズに触れてきた人間で、初代も『Ⅱ』もそれなり以上に遊んできた人間であるはずなのに、なぜこのよう差が生まれたのかはよく分からない。

 

もしかしたら、筆者が最初に『ブレイズ』に触れた時、違和感や失望感をそれほど覚えなかった人間であるということが大きいのかも知れない。アイテムボックスやイフェクトグッズといった仕様を見て、筆者は案外あっさり「そういうことなら」と受け入れられてしまったクチなので、多くのファンが言うほど否定的にはなれないのだ。

 

その案外あっさり受け入れられてしまった理由は、筆者がまだ子供だったからかも知れない。余計なことは考えずに、ただゲーム部分のみに没頭出来たからかも知れない。ただ、そんな子供があまり違和感を覚えずにその仕様を受け入れられたのも、当時は全く意識してはいなかったが、やはりゲームの根底に横たわる「何か」がそれほど変わっていないと感じられたからではないかと思う。

 

前回の記事「SENSE of GUNGRIFFON」でも触れたが、筆者は『ブレイズ』に初めて触れた時、その操縦感覚や「ロボットを動かす感覚」には全く違和感を覚えなかった。むしろ、旧作よりも浮遊感の増したジャンプや広大になった3D空間を走り回る感覚、快感に酔いしれた。言うなればそれは体感的な「フィジカルな楽しさ」(この語が正確かはともかく)であり、「身体」を動かすことの楽しさ、飛んだり、跳ねたりする楽しさであったように思う。

 

そういう意味では余り知的な子供ではなかったのかも知れないが、「子供でも楽しめるフック」があることもまた、『ガングリフォン』という作品の提供してくれる楽しさの一つであったように思う(これは初代にもあったはずだ)。それが「本質だ」とはもう言わないが、やはりそれは『ガングリフォン』という作品の一つの魅力には違いないだろう。

 

もっとも、中にはリアルになった分、多少不便になったジャンプの挙動を受け入れられず、全速後進した後にジャンプして前方への慣性を殺し、旧作のようなホバリング状態を疑似的に再現する技を発明したプレイヤーもいたというから、全てのファンがこの「フィジカルな楽しさ」をそのまま受け入れられたわけではなかったというのは事実としてあるのだろう(もっとも、そうしたテクニックを生み出す余地があったこと自体は『ブレイズ』の優れた部分にも感じるが)。

 

考えてみると、『ブレイズ』はそうした「快感」を最大化する方向に向かっていたのかも知れない。燃料気化爆弾やクラスター爆弾、新型貫通砲からモーションセンサー爆弾まで、ネタ武器から厨武器まで選り取りみどりで取り揃える一方、アナログスティックに対応した高速機動や現実的な挙動のジャンプを実現し、「走る快感!撃つ快感!飛ぶ快感!」を見事にグレードアップしていた。

 

こうした「快感を追い求める方向性」は初代や『Ⅱ』の頃から確実にあったわけで、それが本質であるかどうかという議論とは別に、『ガングリフォン』という作品が追い求めてきたものの軸線上にあるのは確かなことのように思えるのだ。

 

そしてN氏と筆者がそれぞれ軸足を置く部分が違うならば、見えている景色も自ずと異なってくる。

 

「それはGG1で見えた景色の向こうに広がっていた(ように思えた)世界とは違った」というN氏の言葉は、N氏の拠って立つ場所を端的に言い表していると思う。その上でN氏は、「肝腎のところは、もう変わらないような気がしている」と書かれている。多分、そうなのだろう。

 

ただ、筆者はここは変わらなくても良いと思っている。誤解を恐れず言うならば、N氏の言うようにここが「肝腎のところ」だと思っていないのだ。前回の記事でも書いたと思うが、例えファンの『ブレイズ』への評価が変わらなかったとしても、それは問題ではないように思う。

 

なぜならば、『ブレイズ』という作品の存在はこれまでもずっとファンを悩ませてきたし、これからも悩ませ続けること確実な、目の上のタンコブ的存在であり続けると思うからだ。『ブレイズ』は一体何がしたかったのか?なぜあのような仕様になったのか?それらを考えることなくして『ガングリフォン』という作品の全貌は恐らく見えてこない。N氏同様に、筆者も実は「もうそこは変わらない」と思っているのだ。

 

「映画史にはゴダール以前とゴダール以後しかない」という言葉があるが、筆者は「ガングリフォン史にはブレイズ以前とブレイズ以後しかない」という言葉を敢えて、敢えて語ってみたい・・・・・・、なんてことを言ったらすげー量の燃料気化爆弾を撃ち込まれそうだが、これは言葉の「あや」なのでちょっと辛抱して聞いて頂きたい。

 

『ブレイズ』が出るまで、多くのファンは「ガングリフォンらしさ」というものを自明のものとして受け取っていたように思う。それが「補給ヘリ」でも「レーダー」でも「ミリタリーテイスト」でも構わないのだが、多くのファンはそれが「ガングリフォンらしさ」だと信じて疑わなかったはずだ。

 

しかし、それが『ブレイズ』の登場によって揺さぶられた。「補給ヘリ」がなくなり、「レーダー」がなくなり、「ミリタリーテイスト」すらやや後退したようにも見えるその作品の登場によって、「ガングリフォンって何だ?」という問い掛けが生まれた。このことが重要だと思う。

 

いや、実際には問い掛けよりも「これはガングリじゃねえ!」とか「こんクソゲーがぁ!」とか「この豆鉄砲はなんだぁ!?」、「俺に12式改を返せええ!」、「16式の肩パッドやめろぉ!」、「親方!AWGSから巨大爆弾が・・・・・・!」という怨嗟の声ばかりだったような気もするが、それだけファンが過剰に反応したということ自体が、やはりファンの中の「ガングリフォン観」とでも言うべきものを大きく揺さぶった何よりの証左になると思う。

 

「あれはガングリフォンではない」という言葉は、「ではガングリフォンとは何か?」という疑問とセットでなければその効力を発揮出来ない。例え『ブレイズ』を否定しても、遠ざけても、その問いはいつまでも残る。そしてその問いへの答えが、「ブレイズはガングリフォンではない」でも構わない。その根拠が重要だ(或いは、その問いへのファンの回答が『HIGH-MACS Simulator』だったのかも知れない)。

 

前回の記事でも書いたが、これは個々のファンが『ブレイズ』を認めるか、認めないかということとは関係なく、そうだと思う。『ブレイズ』について考えることは、初代や『Ⅱ』について考えることにも繋がるはずだという筆者の考えはここに立脚する。

 

その上で筆者は『ブレイズ』という作品の先に広がるものを見ている。N氏や多くのファンが「GG1で見えた景色の向こうに広がっていた(ように思えた)世界」を見たように、筆者は「ブレイズが見せてくれた景色の向こうに広がる世界」を見ている。

 

こういうことを言うと、「そんなものこの20年以上、どこにも現れなかったじゃないか」という声が聞こえてきそうだ。そう、20年以上の間、『ブレイズ』の直系的な作品はない。いや、それどころか、『HIGH-MACS Simulator』などの一部のインディーズ作品を除けば、『ガングリフォン』の後継作そのものすらない。

 

おまけに日本のロボゲー業界は絶賛衰退中だ。かつては『ガングリフォン』のライバルとも言われた『アーマードコア』シリーズすら、長らく続報がない。『フロントミッション』は・・・・・・、スケールキット化の報告は来たね・・・・・・。ロボゲーを巡る状況は端的に言って「冬の時代」である。

 

しかし、こういう状況だからこそ、個々の作品が何をやろうとしたのかを理解することが必要だと思う。幸い、この部分に関してはN氏も同意してくれている。N氏は先のツイートの中でこうも言われていた。

 

 GG2・Bとシリーズが続いていった中で、ファンが各々GG1の体験から築き上げた堅固な「ガングリフォン観」をアップデートせず、「軟派になった」「ライトユーザに媚びた」、言ってしまえば「ぼくの考えたさいきょうのガングリフォンが出なかった」と不平したのは怠慢だ、と言われれば、そうかもしれない

 

筆者としては「怠慢だ」とまでは言わないし、「アップデートしろ」なんて偉そうなことは言えない。N氏ならいざ知らず、筆者はそんな立場でもない。ただ、『ガングリフォン』シリーズ全体のことを考える上で鍵となるのはやはり『ブレイズ』なのではないかという確信めいたものが「なぜか」ある。

 

それはこのブログでも何度か示してきたように、『ブレイズ』が単にシリーズの路線変更を行った作品ではなく、むしろ初代『ガングリフォン』の企画段階において示された「隠れながら撃つ感覚」というコンセプトを、恐らくシリーズの中で初めて十全に達成した作品であるという事実にも寄るのかも知れない。

 

地形を活かして敵の弾を避け、地形の陰から敵を撃つ。このコンセプト一つとっても、シリーズの「異端」とされてきた『ブレイズ』は、実はその根本的な部分では「異端ではない」可能性がまだ残されていると思う。

 

いや、もう『ブレイズ』が「異端」であっても「ガングリフォンでなくても」良いのかも知れない。そこにこだわること自体が、実は間違いなのかも知れない。仮に『ブレイズ』が「ガングリフォンではない」にせよ、それが「ガングリフォンから」生まれたことに変わりはない。

 

それが「ガングリフォンから」離れ、「ガングリフォンとは別の」地点に降り立ったのだとしても、それがシリーズの積み重ねてきたものの一つの達成であり、初代や『Ⅱ』が見せてくれた景色とは違う、何か別の景色を見せてくれたことに変わりはないように思う。

 

そして恐らく、「ブレイズが見せてくれた景色」、「降り立った地点」というのは端的に言ってその最高難易度である「HELLモード」だと思う。この「地獄」の先に、何か別の未来が広がっていたような気はしている。その先に広がるものが「天国」であったかどうかまでは分からないが。

 

 

 

 

 

最後になるが、『ブレイズ』は明日8月10日で発売されてから20年目を迎える。そんな節目の時に『ブレイズ』について色々考える機会を設けられたことは何だか感慨深いが、これは筆者の勇み足を指摘してくれたN氏にお礼を言うべきかも知れない。感謝します。

 

これで十分な答えとなるかは分からないが、以上を以て筆者の回答としたい。

 

 

 

 

 

 

 脚注

*1:一応、『ブレイズ』においてレーダーがなくなった理由は「アメリカによってGPSの利用が規制されたから」という設定が付与されてはいるが、この設定に合わせてレーダーが廃止されたわけではないだろう。同様に、初代でもHIGH-MACSのレーダーは「GPSや支援の戦場監視機からの合成開孔レーダーのリアルタイムデータをモニターに合成して表示している(それを便宜上、「レーダー」と呼んでいるだけ)」という設定が付与されてはいるが、この設定に沿ってレーダーが実装されたわけではないだろう。