ガングリフォン・ムック(仮)

名作ゲーム、ガングリフォンシリーズについて考察するブログです。他のゲームも時々語ります。更新不定期。

「物語」は誰が語るのか?

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先日の拙記事、「ブレイズはもうすぐ二十歳になる」についてM氏からツイッター上で意見を頂いた。この意見の中でM氏はこれまで余り登場しなかった「物語」というキーワードで作品について語られており、これについて考えてみることは大事なことなのではないかと思ったのでご紹介したいと思う。

 

 

 

 

 

 

まず例によってM氏のツイートを引用させて頂き、その後に筆者の考えを述べさせて頂きたい。前回同様、太字・強調部分は筆者の手による。

 

 

 

 M氏のツイート

 

最後のガングリフォンが産まれて20年・・・。それでもガングリフォンは、論ずる対象としてこれ以降もあり続けるだろう。

 

ガングリフォンの進化は、ブレイズを機にある種の分岐になるはずだったかもしれない。よりカジュアルな#ガングリフォンブレイズ、或いは一作目から世界観をリセットしててでもリアルさ向上を目指した#アライドストライク。

 

だがしかし、ファンが求めていたガングリフォンはゲーム性もそうだがあくまでも1から続く世界と“物語”だったとしたら、ブレイズはゲームとしての完成度を高めたが、アライドは完全に失敗し、どちらもガングリフォンというRACE(種)を残せなかった、事になるのかもしれない。

 

エースコンバットは“本格的ヒコーキごっこ”の路線を守ったがゆえに成功し、今もキラータイトルだが、ユーザーから疑問符を突きつけられたタイトルもあったようだ。 だが、初心に帰ることで見事に軌道修正し、“7”がリリースされて好評だ。

 

そしてYoutubeにはエースコンバットの世界観の小さな物語が“15分間の強烈な光”を放っている。世界観にひかれているユーザーがいることを意識するからこそ、“物語”を語っていく姿勢がエースのファンを支えている。

 

ブレイズを否定するつもりはない。だが、ユーザーにとって一番重要だったのは、“物語”だったからこそ、ブレイズユーザーと1・2ユーザーとの価値観の違いがあるのだろう。

 

“物語は語り手によって大きく姿を変える”。かの夭折の大作家はこう語った。 では語り手のない物語はどうなるのか?

 

1・2は説明書も攻略本もなくとも物語は成立しえた。ミッションを進めていけば無線や幕間で戦況の説明、兵士の心の機微があった。 だが、ブレイズは説明書と攻略本無しで“物語”を感じることができたか、それは否であったと思う。

 

しとりtwitter.com/sitori0528さんには申し訳ないが、ブレイズに決定的に不足していたのは“物語”だったのではないか、と思う。ミッションも少なく、そしてゲーム内テキストだけでプレイヤーは“物語”を知ることができない。

 

それゆえ、エースコンバットと比べれば、ブレイズは伝えるべき“物語”が不足していた、と思う。もし、ステージが倍あり、きっちり時系列順に並び、幕間に“物語”を語れば、アイテムだろうが爆弾だろうが、許されたかもしれない。

 

ゲームは同時に“物語”でもある。個人的にはブレイズの評の険しさが、ガングリフォンという”物語”を語らなかった事に端を発する、と考える。 アライドは語るべき“物語”をそもそも間違えた故にブレイズとは質の違う険しさに晒されている。

 

ただ、“物語”という点のみを除けばブレイズは完成度を高めたガングリフォンではあったのだろう。 その完成度故“物語”の不足は悔やまれる。

 

 

 

以上がM氏のツイートの全てである。まず始めにお断りしておくと、筆者は『エースコンバット』シリーズは初代くらいしかやったことがなく、それも遠い昔の記憶なので知識が追い付いていない部分が多い。なのでこの面での比較に関してのコメントはご容赦願いたい。その上で、ポイントを5つほどに絞って回答させて頂きたい(相変わらず多いなぁ)。

 

①~④までは出来るだけ短く回答し、⑤で本論を述べる形を取った。

 

 

しとりの回答

 

 

①だがしかし、ファンが求めていたガングリフォンはゲーム性もそうだがあくまでも1から続く世界と“物語”だったとしたら、ブレイズはゲームとしての完成度を高めたが、アライドは完全に失敗し、どちらもガングリフォンというRACE(種)を残せなかった、事になるのかもしれない。

 

『ブレイズ』と『アライドストライク』が「(多くの)ファンの求めるガングリフォン」と違ったのは確かだと思う。

 

ただ、ではそれが「種」を残せなかった理由、シリーズの衰退した理由(と捉えていいですよね?)であるというのは少し異なると思う。これは前回のN氏への回答でも少し触れたが、『ガングリフォン』というシリーズが終焉した理由は作品を取り巻くいくつかの複合的要因、その中でも取り分けて経済的要因が大きいと思う。

 

そのヒントになると思われるのがシリーズの売り上げだ。シリーズの売り上げは筆者の記憶に寄れば大体次のようになる。

 

  • GG1(1996):20万本~
  • GG2(1998):6万本~7万本
  • GGB(2000):4万~5万本
  • GAS(2004):1万本~1万5千本

 

数値は多少増減するかも知れないが、筆者の記憶だとシリーズの売り上げは大体こんな感じだったと思う(保証は出来ません)。この数字を見れば分かるように、初代がダントツで売れていて、『Ⅱ』でガクッと落ち込み、『ブレイズ』、『アライドストライク』と右肩下がりで下降線を辿っているのが分かる。

 

この数字をどう読むかだが、筆者が注目したいのは『Ⅱ』の時点で売り上げが半分以下に下がっている点。20万本というスマッシュヒットを飛ばし、ファンからの評価も高かった初代の後で発売された『Ⅱ』は、基本システムはそのままに様々な改良を加え、豊富なモードと先進的な通信対戦などの実験的な試みを満載したシリーズの中でも取り分けて豪華な一作であった(多分、初代の成功で予算をつぎ込めた?)。

 

現在でもファンの中での評価は決して悪くはないし、『ブレイズ』や『アライドストライク』と比べたらその扱いは天と地ほど違う。一部には反発する向きもあったらしいが、その作風だって『ブレイズ』ほど激変したわけでもなく、また、実際にファンの怒りを誘うようなものでもなかったと思う。

 

なのに、実際のセールスは初代の半分以下の6万本から7万本程度に落ち込んだ。この数値は『ブレイズ』よりも良いとは言え、初代の続編の売り上げとしては少々物足りない気もする。これは何を意味するのか?

 

もっとも分かり易い答えは、実は「初代の時点で離れていったユーザーがかなり多い」という仮説である。口コミで人気が広がった初代は例外的に20万本という売り上げを記録したが、その作風やマニアックな内容を受け付けず、離れていたユーザーも多かった。彼らが固定客とならなかったために、売り上げが『Ⅱ』以降に続かなかった。こう考えると、この数値を説明出来るかも知れない。

 

もっとも、続編の『Ⅱ』の発売時期の1998年はセガサターン最末期に近く、流通量が抑えられた(?)とか色々噂もあるのだけれど、これについては良く分からないことも多いのでまた別の機会に。

 

ただ、いずれにせよその売り上げは『Ⅱ』の時点で下降していたことを考えると、シリーズ衰退の原因を『ブレイズ』と『アライド』に求めるのは間違いだと思う。その二つに対する従来のファンの評価がどうであれ、シリーズを支える市場規模は元々小さく、新しい客層を取り込まなければどの道生き延びられなかったのではないか。

 

例えシリーズがその後も続いていたとしても、ハードの高性能化とそれに伴う開発費の高騰によって市場規模の問題はより顕著に現れることになっただろう。現在絶賛衰退中のロボゲー業界の現状を見れば、そのことがよりよく分かると思う。だから、『ガングリフォン』という「種」が滅びたのは、個々の作品のせいというよりも、抗えない運命だったという気がする。

 

 

 

②ブレイズを否定するつもりはない。だが、ユーザーにとって一番重要だったのは、“物語”だったからこそ、ブレイズユーザーと1・2ユーザーとの価値観の違いがあるのだろう。 

 

「”物語”に価値観の違いがある」というのはどうだろうか。一口に1・2ユーザー、ブレイズ・ユーザーと言っても色々な人がいるので、一概には言いにくい気もする。初代ファンと言っても、R氏のように『ブレイズ』もやり込んだ上で評価してくれる人もいるし。

 

ただ、多くのファンの『ブレイズ』に対する評価に関して言うならば、端的に言って、それは「求めていたものとは違った」という部分に尽きるのだと思う。「世界観」や「雰囲気」、「テイスト」といった個々の要素の問題であるという以上に、「求めていたものとは違った」という、そのことが正直一番大きいという気はしている。

 

そしてこの点で言うと、開発側が梯子を外した感もなくはないので、多くのファンがそう思ったのも無理からぬことなのかなと思う。

 

逆に、筆者は作品に「何かを求めたことがなかった」ような気はする。筆者も『ブレイズ』が出る以前にそれが出てくることを求めてたわけではないけど(そもそも余り考えたことがなかった)、やってみたら「これはこれで良いじゃない」となってしまっただけなので。その差が何によるのかはよく分からない。

 

 

 

③1・2は説明書も攻略本もなくとも物語は成立しえた。ミッションを進めていけば無線や幕間で戦況の説明、兵士の心の機微があった。 だが、ブレイズは説明書と攻略本無しで“物語”を感じることができたか、それは否であったと思う。

 

「ブレイズは説明書と攻略本無しで“物語”を感じることができたか、それは否であったと思う」というM氏の指摘はその通りだと思うが、ここで考えるべきなのはむしろ「ではなぜブレイズには物語が感じられなかったのか?」ということではないかと思う。

 

筆者は昔から不思議に思っていたことがある。

 

それは「なぜ『ブレイズ』にはM氏の言うような”ナレーション”や”幕間劇”がないのだろう?」という疑問だ。『Ⅱ』のような形式の幕間劇だと手間も金も掛かるかも知れないが、少なくとも初代のナレーションのような形式ならさほど手間もお金も掛けずに出来るのではないかと?

 

いや、声優という仕事を軽く見ているわけではないのだが、そういう配慮はやろうと思えばいくらでも出来たと思うのである。野田圭一氏のような渋い声の声優がミッション前にブリーフィングなりテキストなりをナレーションで語ってくれるだけでも、M氏の言うような「物語」は少しでも立ち上がってくる可能性はあったと思う。それがあるだけでも、かなり印象は変わったはずだ。

 

にも関わらず、そういう配慮をしようとした痕跡どころか、むしろ徹底して「語り手」を排除しているようにも見えるのはなぜなのか?そこには何らかの意図があったのではないのか?

 

その理由を考えてみる必要があると思う。

 

これもやはり⑤の回答とも絡むので、しばしお待ち頂きたい。

 

 

 

④それゆえ、エースコンバットと比べれば、ブレイズは伝えるべき“物語”が不足していた、と思う。もし、ステージが倍あり、きっちり時系列順に並び、幕間に“物語”を語れば、アイテムだろうが爆弾だろうが、許されたかもしれない。

 

これはM氏だから敢えて率直に言わせてもらうが、100%それはない。なぜなら、多くのファンが拒否反応を起こしているのはその「アイテム」と「爆弾」の方だから。

 

と同時に、「ステージの数」も、「時系列順」も、「幕間に語る物語」も、実は『ブレイズ』という作品においてはそれほど重要なものではない。というか、それがなくたって成立するのが『ブレイズ』なのではないかという気が今はしている。

 

そしてM氏は「伝えるべき”物語”が不足していた」と言われるが、これは間違っていると思う。恐らく、「伝えるべき物語」が不足しているのは「作品」の側ではなく、「プレイヤー」の側ではないか。

 

そのことを踏まえた上で、⑤の本論に入って行きたい。

 

 

 

ゲームは同時に“物語”でもある。個人的にはブレイズの評の険しさが、ガングリフォンという”物語”を語らなかった事に端を発する、と考える。 アライドは語るべき“物語”をそもそも間違えた故にブレイズとは質の違う険しさに晒されている。

 

「ファンが望むものを語らなかった」という意味においてならば、M氏の認識自体は間違ってはいない。 実際、『ブレイズ』にはM氏の言うようなナレーションも、幕間劇もないし、それ以前の問題として「世界観」や「雰囲気」も大きく後退したように見える。

 

だが、ではそれを以て直ちに『ブレイズ』は本当に「物語を語らなかった」と言えるのかというと、これは少々疑問なところがある。

 

そのことについて考える前に、まずはM氏の言う「ゲームは同時に”物語”でもある」という前提について少し考えてみたい。

 

 

 

筆者は決してゲーム史に明るい人間ではないので間違いもあるかも知れないが、物語要素を兼ね備えたゲームが一般に広く認知されるようになったのは、日本においては『ドラゴンクエスト』などのRPG作品からではないかと思う。

 

日本においてゲームカルチャーの先駆けとなった『インベーダーゲーム』や後年の『パックマン』などを見れば分かると思うが、これらのゲームを駆動させていたものは決して「物語」ではなかったはずで、このゲーム黎明期において「物語」は決して「ゲーム」とイコールで結ばれていたわけではなかった。

 

しかし、『ドラゴンクエスト』が物語を導入することに成功して以来(勿論、これは国内の話だが)、「物語」を語らないゲーム作品はむしろ少数派になった。RPGというジャンルに限らず、ゲーム作品が「物語」や「世界観」といった要素をその内部に持つことは当たり前のようになったのである。

 

ドラゴンクエスト』が日本におけるRPGの受容に果たした役割は大きく、その生みの親である堀井雄二の巧みなストーリーテーリングの才能によって「物語主導」の『ドラクエ』はJRPGの原型を形作った。ここまでが大体のゲーム史で説明されていることだ。

 

しかし、批評家の多根清史氏は「RPG物語論ドラクエ』はすじがきのない物語と融合できるか」*1の中で、堀井雄二が目指したのは必ずしも「物語主導」のRPGではなかったのではないかと指摘する。

 

 しかし、えてして本人の才能と願望とは一致しないのが世のさだめ。堀井雄二は、本当に「物語を紡ぎ続けること」を望んだのだろうか?まだよちよち歩きでかしかできない未熟なゲームシステムが独り立ちするための手助けとして、いずれは外される予定の「補助輪」のはずが、行きすぎた完成度のために「本体」と思いこまれる本末転倒に陥っているのではなかろうか。

「いつまでも『成長』だけに頼っていては先がない。成長だけがメインのRPGなど、二本も遊べば、飽きる。三本目からは『またか』という気がして成長がめんどくさくなってしまうのだ。物語性を重視し、本来の意味でのロールプレイング(役割を演じる)ゲームの道を歩むべきだろう」(ビジネス・アスキー刊『虹色ディップスイッチ』より)

 まさに時は一九八六年の六月。初代のドラクエが発売されるにあたっての、堀井の決意表明とも言える言葉だ。かれは我が子を送り出すに際して、それがコンピューターRPGを日本に根付かせることに自覚的だった。日本のゲームシーンをまだ見ぬ先へと連れていくルーラの翼を与えるために、「物語」と「ゲームシステム」を両輪とするレールを敷こうとしたのだ。

 

 しかし、もっと先を、さらにその先を見たいと思わせるシナリオのけん引力が強靭であるほど、プレイヤーは「導かれること」に慣れっこになる。より経験値を積んで強くなれば、安全な町を離れて遠くまで旅ができるるようになり、怪物がうろつく大地を我がもの顔で歩き回れる。そうして止めどなく広がっていく自由に、『Ⅲ』の冒険者たちはかえって戸惑いを覚えてしまった。「船を手に入れてから、どこに行ったらいいか、わからなくなった」から難しい、という声が寄せられたのだ。この思わしくない反応に対して、堀井は次のように述べている。

「それまではキッチリとルートを決められていたから、せめて船を手に入れたあとくらいは自由に動き回りたいと考えたわけ(前掲書より)」

 

 基本的に、『Ⅰ』~『Ⅲ』のシナリオは、「どこで」、「何を」取ってこいという「おつかい」に義理と人情の皮をかぶせる程度に抑えられ、ストーリーはRPGのシステムに慣れるためのガイドの域に留まっていた。さらに『Ⅱ』ではパーティ仲間が王子なり王女という背景を備えていたが、『Ⅲ』では酒場で出会う行きずり、つまり「物語」を持たぬ馬の骨にすぎない。「ストーリー主導」はRPGを遊ぶ人々がベテランに成長したあかつきには、いずれ外してもかまわない「補助輪」程度の重みしかなかったのだ。堀井のまなざしは、プレイヤーが面白さを見つける「システム主導」に向けられていたのではないか。

 ところが、ためしに補助輪を外してみると「難しい」といわれてしまった。

 

『Ⅰ』や『Ⅱ』の巧みなシナリオテーリングを体験した後で、突如与えらた自由はプレイヤーにとっては荷の重いものだったらしい。「自由」を与えられると、人は逆に戸惑まうのだ。

 

この後、堀井雄二は『Ⅳ』で再び「システム主導」を模索するが、ファンの反応を見つつ『Ⅴ』や『Ⅵ』で「シナリオ主導型」へとシリーズを回帰させていくことになるのだが、それは良かれと思って与えた「自由」が思いの外ファンに受けが悪かったということにもあったらしい。

 

そしてこのことが日本におけるRPGの受容において果たした決定的な役割を果たし、本来の意味での「ロールプレイング」とはやや性質を異にする、無数のストーリー主導型、シナリオ主導型RPG、俗に「JRPG」と呼ばれるジャンルを形成し、独自の発展を遂げていくことになる。

 

 

 

この文章を引用した理由はもうお分かりだと思う。この『ドラクエ』におけるファンとクリエイターのすれ違いの顛末は、『ガングリフォン』シリーズとファンの関係に似ていないだろうか?

 

『Ⅰ』、『Ⅱ』において「シナリオ主導」の作品を作り続けてファンの支持を受け、「RPGとはこういうものなんだ」と日本のゲーマー達を啓蒙してきた『ドラクエ』は、『Ⅲ』において初めてその「補助輪」を外し、プレイヤーに「自由」を与え、本来の意味でのRPGを志向しようとしたが、逆にファンを戸惑わせる結果になってしまった。

 

初代、『Ⅱ』とその練り込まれた「世界観」や「雰囲気」を見せてきた『ガングリ』は、『ブレイズ』で「世界観」を後退させ、「レーダー」や「補給ヘリ」を外し、プレイヤーに多くの「自由」を与えようとしたが、やはりファンの強い反発にあってしまった。「それは我々の求めるものではない」と。

 

奇しくも批判の対象となったのがいずれもシリーズの三作目であるという点も興味深いが、この類似は偶然ではないだろう。

 

多根氏は先述の文章でこう指摘する。

 

まだよちよち歩きでかしかできない未熟なゲームシステムが独り立ちするための手助けとして、いずれは外される予定の「補助輪」のはずが、行きすぎた完成度のために「本体」と思いこまれる本末転倒に陥っているのではなかろうか。

 

勿論、初代の時点ですら『ガングリ』のゲームシステムは「よちよち歩きしか出来ない未熟なゲームシステム」ではなかったし、その提示された「世界観」も「いずれ外される補助輪」ではなく、むしろ目指したものであっただろう。それは宮路氏が自身がディレクターを務めたRPGグランディア』のパンフレットに寄せた文章の中で書かれている、「命が吹き込まれた世界を作りたい」という言葉からも窺える。

 

初代においてそれが明確な獲得目的であった以上、『ブレイズ』でそれが一転して薄れ、むしろ「システム」の方が前面に出て来た時にファンが戸惑い、反発を覚えたのは『ドラクエ』以上に無理からぬことだったかも知れない。それが魅力的であればあるほど、ファンからすれば梯子を外されてしまった、もっと言って裏切られたような気持ちになってしまったのだと思う。

 

しかし、この多根氏の指摘を踏まえた上で、二つのシリーズが共に「プレイヤーが面白さを見つけるシステム主導型」へと移行しようとしたその時に、いずれもファンの反発を受けてしまったという事実は、一考に値することではないかと思う。

 

 

 

一般的に、日本国内において「システム主導型」のゲームや自由度の高いゲームはあまり好まれないということは昔から言われてきた。

 

これは例えば、シリーズの中でも特に自由度を高めた『ファイナルファンタジー12』の国内評価と国外評価の違いにも端的に現れている。日本では主に「ストーリー」や「キャラクター」の説明不足、複雑で理解し難く、やはり説明不足の感がある「戦闘システム」(実際は奥深いのだが)を理由に賛否両論が巻き起こったが、海外ではその自由度の高さがウケて今でもJRPGを代表する作品として名作ランキングに名を連ねている。

 

或いは、『GTA』シリーズや『TES』シリーズに代表される海外製のオープンワールドゲームが日本に根付くのに時間が掛かったのには、そうした理由も一因としてあったと思う。今でこそそんなことはないだろうが、少し前までオープンワールドRPGに触れたプレイヤーの中には「何をしたらいいか分からない」と途方に暮れた人が多かったという。

 

そしてこの点で言うと、『ブレイズ』はシリーズの中でも取り分けて「システム主導型」のゲームなのである。「物語がなくなった」と指摘されるM氏の主張は間違いではないけれども、筆者には「システムがゲームを主導するようになった」と言った方がより正確なのではないかという気がしている。

 

機体、武装、パーツ、攻略ルート、あらゆる部分がプレイヤーの選択に任され、機体の操作性も含めて自由度が大幅に高まる一方、数々のランダム要素の進化によって何度遊んでも飽きない高いリプレイ性を獲得した『ブレイズ』の戦場。それは初代から始まり、『Ⅱ』のサバイバルモードやランダム増援の蓄積の上に成り立った、「世界観」や「物語」の代わりに「ゲームシステム」が強力に「ゲーム」を引っ張り、駆動させる、新しい戦場なのである。

 

『ブレイズ』のどこら辺が「システム主導」なのかは、拙記事「ブレイズ再考 レーダー廃止から読み解くシリーズの変遷」を読んで頂くとして(短い記事なのですぐ読めます)、筆者はまた別の記事、『BIOHAZARD4とBLAZE、何がゲームを引っ張るのか?』という記事においてこの辺りのことを少し書いた。

 

BIOHAZARD4』はその「演出」や「雰囲気」といった要素を大きく後退させ、『魔界村』にも似た先祖帰りを果たしているが、それがやはり初代バイオファンの反発を受けながらも、ゲームとして非常に面白くなっていることをどう評価すべきなのかと?一新された「システム」の優位が、ゲームを引っ張る駆動輪になり得ていないかと?そしてそれは、『ガングリフォン』の中における『ブレイズ』の立ち位置とも似ていないかと?

 

例えば、筆者は『ブレイズ』の中で取り分けて良く出来ているステージはギリシャと、特にウクライナであると考えている。R氏も以前に語っていたと思うが、この二つのステージはシリーズの中でも特にリプレイ性が高く、何回でも遊べてしまう。それは主としてランダム増援のパターンと回数が増えたからで、プレイする度に戦場の様相が少しずつ変化するからである。

 

『ブレイズ』の戦場は出撃する度に異なる振る舞いをし、プレイヤーの体験も微妙に変化していく。これが何度遊んでも飽きない理由であり、「システム」がゲームを主導し、牽引し始めた根拠になるのではないかと思う。

 

こうしたリプレイ性を高めるランダム要素の行き着く先として、筆者は少々飛躍気味にセミオープンワールドにも繋がりそうな未来が見えるのではないかと書いたこともある。もしシリーズが続いていたら、いずれそういう方向を目指しただろうと。そういう未来を見せてくれるポテンシャルがあったと。

 

M氏はツイート上で『ブレイズ』の評価の低さが「物語」に起因すると指摘する。

 

個人的にはブレイズの評の険しさが、ガングリフォンという”物語”を語らなかった事に端を発する、と考える

 

M氏は「”物語”を語らなかった」と言われるが、むしろ「”物語”を語らなかった」のはプレイヤーの側である可能性はないだろうか?「物語がない」というのは逆に言えば、「ロールプレイする幅がある」ということではないのだろうか?もっと言ってプレイヤーが自由に介入し、遊ぶ余地が生まれたと捉えることは出来ないのだろうか?

 

ここで思い出して欲しいのは、『ブレイズ』にはパイロットデータを自分で作成するという、シリーズでも唯一無二の試みがあったことだ。名前、国籍、年齢、身長、体重、視力、IQ、それらを設定してプレイヤーのデータを作り、戦績表によってプレイ時間や破壊した敵兵器の数が記録されるようになった。

 

筆者は特にこの破壊した敵兵器の数がカウントされることやプレイ時間が累積されていくのが好きで、それが自分の作ったパイロットデータとして積み重なって行く時に、何だかRPGでお金やアイテムを得た時にも似た満足感を覚えることがある。こうした試みの目指すところとはつまり、「物語は自分で作れ」ということではないのか?

 

M氏は先のツイート上でこうも書かれている。

 

“物語は語り手によって大きく姿を変える”。かの夭折の大作家はこう語った。 では語り手のない物語はどうなるのか?

 

筆者はこの言葉を語った作家が誰か知らないが(M氏の好きな三島さんだろうか?)、この言葉を例にシリーズの物語の語り手を見てみよう。

 

初代においてはHIGH‐MACSに乗り込んだ無名の兵士と、野田圭一氏によるナレーションが。『Ⅱ』ではシン中野や仲間達との幕間劇と、ベルリン・リリィのラジオが。『ブレイズ』では物語の語り手はいなくなったが、プレイヤーにパイロットを作成する権利を与えた。

 

これを素直に受け取るならば、その意味するところは「プレイヤーが自らの物語を作ってほしい」ということではないのか?日本外人部隊に所属する、一人のパイロットをロールプレイングして欲しい。そしてそのために、「物語が前面に来るのを敢えて抑えた」とは考えられないか?

 

M氏は「語り手のいない物語」と言われるが、失礼を承知で逆にM氏に問いたい。

 

ではあなたは一体「何者」なのかと?

プレイヤーは「物語の語り手」足り得ないのかと?

M氏は『ブレイズ』をプレイした時に、パイロットデータに誰の、或いはどんな名前を打ち込んだのかと?

 

 

 

ちなみに筆者はこう打ち込みました。Arsene Lupin III」と。

 

国籍フランス、身長179㎝、体重63㎏、視力5.0、IQ300の天才です。ええ、天才です。ナイスバディの妖艶な美女と帽子を目深に被ったガンマン、何でも切れる刀を持った無口な剣士の仲間がいる名うての大泥棒という脳内設定で、手錠を振り回す日本警察の警部に追われて仕方なしに入隊した先の日本外人部隊でしごかれる間にあれよあれよという間にパイロットとして頭角を現し、任務中にHIGH‐MACSを盗んでやはり仲間が盗んできた中国の原潜でどこかに逃亡したフランス系日本人という設定でした。

 

 

 

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嘘だよ~ん!じゃ、またな~!とっつぁ~ん!

 

 

 

・・・・・・そしてこれは、機体や武装、パーツの選択といった選択の自由と、レーダーの廃止によるより能動的なプレイへの移行と補給ヘリの廃止による攻略ルートの解放といった、あらゆる「自由」や「選択」の権利をプレイヤーに委ねようとした『ブレイズ』の方向性とは見事に合致しているようにも思える。

 

あまつさえ、『ブレイズ』はその「物語」までをもプレイヤーに委ねようとしていたのではないのか?「物語」はプレイヤーが自由に作り、語れと。シチュエーションは用意した。そこでどんな「物語=戦闘」を語るかはあなたの自由だと。

 

『ブレイズ』はひたすらあらゆる権利をプレイヤーの側に委ねようとしたタイトルだと思う。それまではゲーム側が管理していたあらゆる権利を、どっさりとプレイヤーの側に与えてくれたのである。ここにおいて、誰かの用意した「物語」はむしろ没入を阻害する足枷になりはしないだろうか?

 

こうした要素が前面に来れば来るほど、「ロールプレイの幅」は少なくなり、ゲームの遊び方の面でもプレイヤーは受動的立場に置かれざるを得なくなる。そしてこれは自由度の高さやプレイヤーが能動的立場でゲームに関わってくれることを目指したであろう『ブレイズ』の方向性とは必ずしも合致しないのだ。むしろ「物語」をオミットし、プレイヤーの自由なロールプレイに任せた方が良い。そういう判断があったのだと思う。

 

プレイヤーが思い思いに描いたパイロットが、プレイヤーの思い思いの戦い方を繰り広げる戦場においては、ナレーションも、幕間劇も不要であり、最低限のシチュエーションやミッション説明さえあればいいと。

 

恐らく、そこにおいて目指されたのは、その提示された「世界観」や「雰囲気」、「物語」を楽しむ「受動的ゲーム」から、その広大化したフィールドの中で「プレイヤー自らが楽しさを見つける」という、より能動的で、より積極的な「システム主導型」ゲームへの転換だったのではないか?

 

そして誠に遺憾ながら、ギリシャチベットの洞窟(コラートが隠れているところ)といった要素は、そう考えると説明が着く(あれが良かったかはともかく)。それはストーリー重視のJRPGから突然、海外製のオープンワールドRPGの世界に放り出されたくらいのラディカルな変化であり、プレイヤーの側が戸惑ったのも無理はない(コラートには誰でも戸惑うが)。

 

しかし、こうした方針は実は、『ブレイズ』になって急に入れ込まれたというわけでもなく、シリーズが辿ってきた仕様の変遷にすでに現れていたと思う(洞窟じゃなくてね)。

 

初代においては一括式だった弾薬の補給が、『Ⅱ』において選んだ武装のみ補給される形式になったように、或いは、その武装が選択式になったように。また或いは、初代では固定だった増援の方向が『Ⅱ』ではランダム増援が採用され、複数の方向からランダムで敵が登場するようになったように、『ガングリ』は絶えず「プレイヤーに考えさせ、選ばせる」方向で進化してきた。

 

『ブレイズ』はそれを更に過激に推し進めた。

 

補給ヘリを廃止して攻略ルートを解放し、レーダーを排除してプレイヤー自らが敵を見つけるように導き、遂には「物語」すらオミットしてパイロットデータや戦績表を加えた。それは機体の機能や挙動にも及び、ズーム機能の実装や部位判定の導入、地形の立体化といった数々の新要素によってプレイヤーの取り得る行動を大幅に増やした。

 

はっきり言って、『ブレイズ』における進化とその方向性の転換は過激である。過激に過ぎるくらいである(最近は筆者も大概だが・・・・・・反省orz)。「ライトユーザー向けになった」というその一般的な評価とは裏腹に、むしろ実態はかなり「コアユーザー向け」の内容になっていると筆者は思う。

 

確かに「世界観」や「雰囲気」、或いはM氏の言う「物語」といった要素は後退したかも知れない。しかし、その代わりにシリーズを通して研鑽され、蓄積されてきた「システム」が遂に自立し、圧倒的に前面に出てきた。様々な「自由」と「選択の権利」がプレイヤーに与えられ、「自分で楽しみを見つけろ」と促した。

 

ここにおいて、誰かの用意した「物語」は不要になったのだと思う。M氏は「物語がない」と言われるが、「物語」の力を借りることなくシステムだけでゲームが自立し、駆動するようになったのは、それはそれで一つの進化に違いない。

 

確かに、初代や『Ⅱ』における「物語」、或いはその「世界観」の大きな魅力をなしていたであろう、岡田氏の描く第三次世界大戦という「大きな物語」は失われた。初代や『Ⅱ』を駆動させていた、「誰かの用意した物語」はなくなってしまった。それがファンにとって大切な位置を占めていたのは理解出来るし、「求めていたものとは違う」と言われればそれはその通りなのだろう。

 

そうした人々にとって、『ブレイズ』の背後に広がる作品世界は、第三次世界大戦後の悲惨極まる世界同様、「大いなる物語」が失われ、荒廃した、寒冷化の影響激しい寒々しい大地になってしまったのかも知れない。

 

 

 

しかし、それでも筆者は全ての「物語」がそこから失われたわけではないと思う。

 

ここでM氏のツイートをもう一度引用することを許されたい。

 

個人的にはブレイズの評の険しさが、ガングリフォンという”物語”を語らなかった事に端を発する、と考える。

  

筆者はこの言葉を聞いてから、少し考えた。

 

「『ブレイズ』という作品は、本当に”物語”を語っていないのだろうか?」と。

 

確かに、「誰かの用意した物語」は失われたかも知れない。いや、やたらに悲惨な世界観もその背後にはあるから、一概に「物語」がないとは言えないのかも知れないが、少なくとも、それが前景に出て来なくなったのは確かだ。

 

初代の戦況を説明する野田圭一氏のナレーションや、『Ⅱ』のベルリン・リリィのラジオ放送とそれを聞きながら仲間と会話するシン中野の「幕間劇」に比べれば、『ブレイズ』からは「物語」が明らかに失われたようにも見える。

 

だが、筆者は疑問を持つ。

 

そもそも、ゲームの中における「物語」とは、ただ「ナレーション」や「幕間劇」のみによって語られるだけのものなのだろうか?

 

キャラクターのセリフやナレーション、テキスト、或いは劇や芝居、ムービー、何でもいいが、ゲームの中の「物語」とはそういったストーリーパートによってのみ成立しているものなのだろうか?

 

ユリイカ」2009年4月号に掲載された「我らの道はどこにある『D&D』から『テイルズオブ』シリーズ、そして『GTAⅣ』へ!?」と題された対談の中で、小説家のブルボン小林氏と飯田和敏氏は次のような会話を残している。

 

ブルボン (中略)これは宮部(みゆき)さんが言ってたんだけど、RPG的なファンタジーを書くときに困るのって移動するところが再現出来ないってことなんだって。ゲームだと移動する場面において何度も同じ敵を倒していったりするわけで、しかもこれは面白くできる部分なんだけど、でも小説でそこを繰り返し描写することは困難で、いっきに次の町に行ってたりする。ゲームだと面白いところなのに、なぜ小説ではできないんだろうって。

(中略)

飯田 『ドラクエⅣ』を僕もこのあいだやってたんだけど、町に行くと少しお話がすすんで、また次の町に行けば更に進む。移動することで物語が進行する。(中略)だから『ドラクエ』が楽しいっていうのはどこなのか、っていったら、それはやっぱり移動中なんだろう。移動中に考えたり感じたりするあれこれ。戦闘も主に移動中にあるしね。ゲーム制作者は町を作りこんだり会話のメッセージに力を注いでいるんだけれど、プレイヤーはそれ以外のシーンに接する時間の方が圧倒的に長い。

 

この二人の会話を見ると、RPG作品において「物語」が語られているのは、実はキャラクター同士のセリフの掛け合いや芝居が行われているストーリーパートだけではないということが分かると思う。特に、小説家の宮部みゆき氏の話として語られる、「小説では移動中の面白さが再現出来ない」という言葉は非常に示唆的である。恐らく、移動中を「物語」として語ることが出来るのはゲームメディアだけの特権なのである。

 

これは昨今のオープンワールドRPGなどに置き換えて見るともっと分かり易いかも知れない。プレイヤーはそのゲームプレイの大部分の時間を「移動」に費やす。町から町へと歩くその道のりに、或いは馬を駆って草原を走るその時に、また或いは怪しげな洞窟の奥深くに歩みを進めていくその瞬間に、「物語」は少しずつ、少しずつ、紡がれているのではないか?

 

いや、歩みを止め、道端にテントを張って休む時にも、或いは池に釣り糸を垂らして魚釣りに興じている時にも、もしかしたらただそこでボーっと突っ立っているその時にでさえ、その世界の時の流れと同じく、「物語」は常に進行しているのではないのか?

 

これを『ガングリフォン』シリーズに置き換えて考えてみることは出来ないだろうか?思い浮かべる作品は別に初代でも『Ⅱ』でも構わない。

 

プレイヤーがその手でHIGH‐MACSを操作し、戦場を縦横無尽に駆け回っているその瞬間は、「物語」ではなかったのか?そのフィールドの中で敵を狙い、撃ち、飛び、跳ね、走り回ることは、「物語」足り得ないのだろうか?

 

今にも飛び出したい気持ちを抑えて、補給ヘリの補給が終わるのを今か今かと待ち焦がれているその瞬間は、プレイヤーにとって大事な「物語」の一部ではなかったのか?

 

敵の増援出現の無線を聞き、「どうやって敵と対峙するか?」、「どの武装で敵を倒すか?」と考えながら敵の元に急行する時、護衛対象が敵の襲撃を受け、機体を旋回させて急いで引き返す時、それは立派に「プレイヤーが紡ぐ物語」の一部になっていたのではないだろうか?

 

そしてこのことは、プレイヤーの取り得る選択肢が大幅に増え、戦闘スタイルにも幅が出た『ブレイズ』においては、更に重要な意味を持つ。崖の上に登って敵を狙撃するのか?それとも敵の頭上にクラスター爆弾を撃ち込むか?或いは、敵の予想進路上にモーションセンサー爆弾を撒いておくのか?空中からトップアタックを仕掛けるか?その選択と行動こそが、「物語」になり得るのではないか?

 

補給ヘリが廃止され、攻略ルートが解放されたからこそ、プレイヤーはステージ上のどこへでも自由に「移動」出来る。レーダーがなくなり、質量センサーに切り替わったからこそ、敵との「遭遇戦(エンカウント)」が発生する。これはむしろ、RPG的な特徴にも似ていないか?

 

旧作に比べて取り得る選択肢やルートが劇的に増えているからこそ、そこで紡がれるプレイヤーの「物語」も多彩になる。プレイヤーごとに全く違う戦闘スタイルが可能だからこそ、プレイヤー個々の体験はより豊かになる。

 

そして『ブレイズ』特有のランダム要素がそこに絡む。そのスタート位置や敵の増援の出現パターンは出撃する度に少しずつ変わる上に、時には倒した敵や破壊したオブジェクトの中から現れた「爆弾」に引っ掛かって思わぬ大ダメージを受け、予定が大幅に崩れることもある。こうした小さな変化が無数に重なり、バタフライ効果のように戦場の様相を一変させてしまう。その刻一刻と変化していく戦場の中で、プレイヤーは状況を判断し、行動し、選択を迫られる。

 

取り分けて敵の攻撃が痛いHELLモードにおいては、一瞬の判断ミスが生死を分けるため、その「選択」と「判断」の重みは過去のシリーズに比べても重い(いや、初代も相当重かったけど>ADATS)。開始数秒で撃破されることもあれば、ミッション成功目前で撃破されるなんてこともしばし起こる。そのランダム性を極めたフィールド上で幾度となく生成され、繰り返される無数の「戦闘」は、プレイヤーにとって「物語」足り得ないのだろうか?

 

ドラクエ』や『ファイファン』でこなしてきた無数の戦闘に費やした時間は、「レベル上げ」という、ただの「作業時間」に過ぎなかったのだろうか?

 

M氏はこうも言う。

 

そしてYoutubeにはエースコンバットの世界観の小さな物語が“15分間の強烈な光”を放っている。世界観にひかれているユーザーがいることを意識するからこそ、“物語”を語っていく姿勢がエースのファンを支えている。

 

筆者は『ガングリフォン』というシリーズの面白さの一つは、丁寧に練られた増援システムにあると常々思っている。タイムテーブルに沿ってエリアの四方八方から現れる敵の増援に対処し、味方の部隊や補給ヘリを援護しつつ、作戦目標を達成する。僅か10分前後のその短い作戦時間の中で、プレイヤーは驚くほど濃密なゲーム体験をすることになる。

 

僅か10分前後の短い時間をとことん作り込み、とんでもなく濃密な時間に変えてくれるのが、初代から変わらぬ『ガングリフォン』シリーズの良さだと思っている。そしてそれは、M氏が言われる、エースコンバットにおける「15分間の強烈な光を放つ物語」同様、「10分間の強烈な光を放つ物語」にはなり得ないのだろうか?

 

筆者はなると思う。いや、なっている。『ブレイズ』の広大なフィールドで繰り広げられるランダム要素の強い戦闘は、それ自体がプレイする度に姿を変える一つの「物語」として機能している。

 

そしてその戦闘要素自体が深みを増している。ズーム機能の実装や部位判定の導入によって遠距離でも近距離でも奥深い戦闘が可能になっている。そして恐らく、そこが『ブレイズ』の間違いない長所である。

 

つまるところ、『ブレイズ』における「物語」とは、「広大なフィールドの中でプレイヤー自身が紡ぐ物語」だと言うことが出来るかも知れない。それは「ゲーム」というメディアにしか語り得ない、「物語」なのだと思う。そのコントローラーを通して、「プレイヤーの手や心の中に残る物語」なのだと思う。

 

惜しむらくは、「システム主導型」に振り切ったにしても、作品の題材と相反する要素がやや多く見受けられることか。イフェクトグッズやオプションボックスといった要素は、多くのプレイヤーにとって確かにそこで語られる「物語」への没入を阻害し、「世界観」を退色させるつまずきの石になっている。

 

そして新規のプレイヤーにとってもその「世界観」を理解し、内部に入り込んで「物語」を語る手立てにやや乏しいというのはあるのかも知れない。この辺りは作品の小さくない瑕疵だろう。

 

しかし、いずれにせよプレイヤーの心一つで「物語」は語り得ると思う。

 

もしかしたら、その「物語」はM氏のお気には召さないかも知れないが。

 

  

 

 

 

脚注

*1:「特集*RPGの冒険」ユリイカ2009年4月号、青土社